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姫路へ初出講 [学問・研究]

 さすがに長旅だ。
 前の「講演会」の日記でも触れたことだが、今日は姫路での「臨床哲学」講義の初出講。行きで乗り換えの仕方を間違えかけ、多少混乱までした。時間に余裕を持って出発したから遅刻の心配はなかったとはいえ。
 姫路でも市街からかなり離れた山沿いにつくられたキャンパスでは、散りかけてはいたものの、まだまだ桜も見ごろだった。

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 先月の「講演」でもあらましは話したが、初回は「哲学を身近なものとしてとらえる」というスタンスから出発。その手始めとしてまず、予備知識なしで「哲学」のイメージを書いてもらう。 やはり「小難しい」「堅苦しい」イメージは根強い。また、「人生への問い」を哲学のプロトタイプとする意見も、さすがに多い。実際の哲学会がこれが中心で動いているとはいえないわけだが。

 前の看護学校での講義でも使った「赤信号で渡るか」という問い。こんな身近で卑近なケースでも、渡る、渡らないいずれにせよ、その人にそれ相応の行動原理というものがあり、その原理が人の判断、行動を動かしている、ということを知ってもらうためだ。良し悪し、適不適はともかく、自分の依拠している行動原理、基本信念を、それと自覚していないことが多いからだ。
 渡ると言う人の、「自己利益のためには法律を無視してもいい」という考え方。それはどこまで妥当だと考えているのか。
 渡らない、法律は法律だから、というのなら、人間が決めた法律というのは絶対なのか。
 それを自覚し、必要とあれば改める。それが、広い意味での、日常のなかの哲学的実践。
 また、「子どもが見ているかどうか」ということを判断材料に加える、意思決定の地平の拡大。それもまた、日常のなかでの哲学的な思考のひとつの実践といえる。

 「専門以外の勉強は専門を学ぶ邪魔になる」という考えの背後にある「頭を容器、知識を内容物とするイメージ」「知識を単なる物体のようなものとして考え、互いにむすびついて成長する生物のようなイメージが働いている」こと。
 「誰にも迷惑をかけなければ何をしても自由」と言う発想(元ネタはミルの「他者危害原則」と、立派な哲学的出典がある)は、自分の行いが迷惑をかけているかどうか、自分の目で見届けられるような時代にできた発想で、地球環境問題のように「見えない形で迷惑が及ぶ」現代には必ずしも通用しないこと、など。

 という感じで、身近なところから、「広義の哲学」から出発して語ってみて、それなりに「哲学が意外に身近に感じられた」との声も得る。
 次回以降はどうなるか、だ。

 帰りはチャンスは今日しかない、と、姫路に来ただけにしておきたいこと。

やはり桜の季節に撮りたい姫路城。
ところが実は補修工事中で、まともに撮るとこうだったりする。

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クレーンを外して撮るのも、ひと苦労だ。

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なんとか、桜の季節に間に合った。

帰宅して今の外では、梟の声が。
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