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今日の講義―物語と死生観 [学問・研究]

 今週も水曜日は姫路へ行く日。
 前回の講義で実験的に試みた、「さまざまな立場の死生観を紹介した上で、そのいずれかの立場を自分が信じているものだとして、その立場を擁護・弁明してみる」アプローチ、思いのほか反響があったことは、授業はじめの前回のフォローアップのなかでも感じられた。
 もともと「死生観」の問題について深く立ち入って考えた経験もない学生たちにとって、単に「いろいろなものの考え方」に触れるというだけでも新鮮でいい機会になったかもしれず、「こんな考え方もあるとは知らなかった」「参考になった」という声もちらほら。
 もちろん死生観の形成というのは一生ものの課題だ。だが考える「きっかけ」と「素材」ぐらいは提供できたようだ。
 多少「軽々しい」扱いになることを承知で、古今東西の死生観を「カタログ的」に扱ってみたのも、相応に意義があったものと思う。

 今回のテーマは「物語と生と死」。
 「死のタブー化」の時代にあって、生と死の問題を考えるうえで、ひとつの手がかりになるのが「物語」「フィクション」を介したアプローチだ。
 現実の死や死別体験をそのまま最初から扱うのは、衝撃が時として大きすぎる。そのため、フィクションのなかで生と死を扱った作品を通して、想像力でその作品世界のうちに身を置くことで、間接的なかたちで問題を考える場を提供しよう、というものだ。
 これは大幅に、研究室の後輩の年来の研究「文学を通した死生観教育」の着想を生かさせていただいている。この場を借りて、感謝を申し上げたい。もちろん講義で論考の紹介もさせていただいた。

 この講義のために、前の回に、「人の生と死」を主題的に扱った物語作品(小説、童話、漫画、アニメ、テレビドラマ、映画…)で思い当たるものを、学生たちに挙げてもらった。

 物語のなかでは、しばしば人の死ということは起こる。それが単に物語を盛り上げるための手段のように扱われて終わることもある。それでも感動はもたらされるだろうが、感動してそれまで。自分自身の問題にまで反転しない、ということもありうる。「三人称の死」のひとつにとどまるというわけだ。
 今回求めたのは、そういうレベルにとどめず、作品世界にじかに身を置いて、自分の問題として、「一人称」「二人称」に引き移して考えてもらう、ということだ。

 ただし、あえて学生自身が自分の問題としてどう考えるか…というかたちにはせず、「子どもに生と死の問題を考えてもらうにはどんな作品がいいか」「子どもが深い感心を抱いたときに、どの作品を提供してみようと思うか」「すでにその物語を読んだり視聴したりした子どもに、そこに込められた生と死の意味をどのように考えさせるか」と、あえて「子どもの見地」から考えるようにさせた。
 「自分自身の問題」にすると、時としてはある種の抵抗があるかも、との判断のもとでだ。あるいは、来週の「子どもと生と死」というテーマへの接続ということもある。

 大事なのは、子どもも接する物語でも「生と死」のテーマは多大に扱われるが、扱っているかどうかではなく、それを子どもがどう受け止め、自分で考える機会、場とするか、ということだ。漫画やアニメで、時として人の死を軽く扱っている、という批判のあるものもあるが、それは事の一面でしかない。そこで描かれた生と死の意味を子どもがちゃんと受け止めれば、そういう作品を通しても子どもなりの死生観形成の手がかりを得ることは不可能ではないと思う(私に言わせれば、ウルトラマンなど、生と死の問題を子どもが深く考えるうえで格好の題材だと思うのだが…)。

 というわけで、『フランダースの犬』『100万回生きた猫』『西の魔女が死んだ』『銀河鉄道の夜』から『ONE PIECE』『鋼の錬金術師』まで、いろいろな題材が挙がり、それについて考えてもらうことになった。
 個々の作品については、機会があれば触れるとしよう。

 帰途でのことも書こうと思ったが、ここまでで長文になったので、日記を分けることにする。
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