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広義の哲学と狭義の哲学 [学問・研究]

 このたびは、早大で開かれた経営哲学学会に参加、発表してきた。
 今年度に入会し、すぐさまの発表ということになる。
 タイトルは「哲学のもうひとつの用法―ビジネスの文脈から読み解くその意味」というもの。私のかねてからの問題意識である、〈広義の哲学〉と〈狭義の哲学〉との関係についての研究だ。
 狭い意味での哲学というのは、もちろん専門研究としての学問的な哲学というもの。それに対して広い意味での哲学とは、「社長の経営哲学」「監督の勝負哲学」「職人のものづくり哲学」など、専門的・学問的な哲学の外で、一般広く見られる「哲学」の用法だ。両者の関係を探ることが、今回の発表の狙いだ。
特に、アカデミズムの議論では見向きもされない、一般の人たちが使う「哲学」の意義を見直す。それが、専門的な哲学が取り落としていた大事なものを今も保っている。こらちに目を向ければ、学問としての哲学も、学ぶところがあるかもしれない。そういう観点に立ってのことだ。「哲学すること」を、一握りの研究者だけのものにはしたくない。誰でもの問題としてとらえなおしたい。そんな問題意識が、背景にある。
 この研究をはじめて、最初の発表の場に「経営哲学学会」を選んだのには理由がある。「経営哲学」には、狭義のものと広義のものとがともに存在し、「哲学」の二つのかたちが出会う、ひとつの最前線となっているからだ。それに、このような発表を正統の哲学系の学会でいきなりやった場合、まったく相手にもされずに玉砕する可能性も高い。
 ということで、経営学的な研究や経営文明論などの発表が主流を占めるこの学会での発表に臨んだ。こちらの学会でも明らかに異色のアプローチで、あるいは場違いだったかも…と懸念もしたが、思いのほか、好評のうちに終えることができた。私自身はむろん「狭義の哲学」から出発している人間だが、そういう人間が「広義の哲学」にまで目を向けて語ろうというのはやはり珍しいことらしい。
 「広義の哲学」にも本来の意味で「哲学的」といえる要素はたくさんあるし(「自覚と反省」は伴っている)、実践への志向を強く保っているというのは、学問的な厳密さや普遍性を追求するあまり人生や社会の現実から遊離しがちな狭義の哲学に対して、哲学の原点にあったものを思い出させる意義も持つ。哲学の「生きた」ありかたは、むしろ「成功哲学」や「勝負哲学」のほうにこそ息づいている、といってもいい。専門的な哲学には、誰でもの問題意識としての「広義の哲学」に対してなんらかの寄与をなす使命があるはずだ。
 最近ではサンデルのハーバード講義を特集した番組が人気を博し、『これからの正義の話をしよう』がベストセラーになり、ビジネス誌『東洋経済』でも哲学特集が組まれるなど、「狭義/広義」の垣根は、ひところよりは低くなっているかもしれない。今は両者が対話する好機ともいえる。
 発表のなかでは言及しなかったが、専門の哲学者のなかには、「哲学」をごく少数の、特別な人たち―根本的に思索しぬく習癖にとりつかれた人たち―だけの営みとして扱おうとする言説があるのも知っている。また、哲学というのが本質的に西欧文化で生い立った独特の知と思考の様式であって、日本人にとっては「異文化」の事柄であり、容易な理解を拒むものである、という言説があるのも、百も承知だ。
 だがそうした歴史的経緯など気にも留めないまま、「哲学」という言葉が一般の人たちの間で流通している事実そのものは否定しようもない。「哲学」の由来がどこにあるか、という話は、そうした一般の人たちにとってはどうでもいい話のはずだ。まずその現実の「哲学」の用法に即して、話を始めるのはまったく許されるアプローチのはずだ。また哲学を徹底的、根源的な知の探求にしか認めない純粋主義というのも、同様の理由で、あくまで一つの見識でしかない。「哲学的に考える」ことを、万人に関わる思考の一つのありようとして位置づけるのも、現実の用法を踏まえるかぎり、まったく正当なアプローチのはずだ。
 そんなわけで、「哲学」のありように一石を投じるアプローチに乗り出したわけだが、いずれは専門的な哲学系の学界にも、何かを発信する必要はあると思う。そのときまで、この研究構想はしっかりと育てていきたい。

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