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北海道より [学問・研究]

 今、帰宅したところだ。
 と、家に着きしだいすぐに日記にアップしようと、帰りの機内で書いていたのをペーストしたのだが。
 ということで、実は初めての北海道。
 札幌、藤女子大学で開かれた日本スピリチュアルケア学会のために、週末の間、赴いていた。
 今年は全国初の猛暑日を北海道が記録するという信じられないようなことが起こっているから、今行ってもひょっとして…と思ったが、さすがに本州よりずっと涼しい。20度台半ば過ぎぐらいだ。ただこれでも、最近まではかなり暑い日が続いた、とのこと。
 本州と違ってずっと広々とした大地が感じられる北海道だが、札幌も大都市にしてはずいぶん空間的に余裕があり、広々とした印象を受ける。道幅も広いから、京都のような過密都市で暮らしていると、だいぶゆったりとした印象を受けたものだ。
 京都同様に碁盤の目状に造られている、いかにも計画都市という感じのまちづくり。場所も交差する通りを組み合わせて座標的に表すのも京都と同じ。だが各通りに固有名詞がある京都と違って、札幌は「北12西5」といった具合に、本当に「座標」になっている。初訪問の人間にも位置感覚が非常につかみやすい。
 実は着いた直後にいささか古くなっていた革靴の靴底が破れてしまい、使い物にならないところまでいって現地で調達するというハプニングも。
 ともかくも、学会へ。
 創設3年目の新しい学会。だが実践家を中心に百数十人の参加者が集まっており、スピリチュアルケアへの関心と需要が、確実に高まっていることを感じさせられる。
 心に残る発表も多かった。
 スピリチュアリティの潮流には研究者として年来関心を寄せてきた私としても、そのなかで最も良質の部分に属するのが、スピリチュアルケアというムーブメントだと思う。
 そして私自身は、二日目の「スピリチュアリティの概念構築ワークショップ」で報告するためだ。
 ケアの現場の人間でもない私がこの学会に呼ばれたのも、「教育」を中心としてスピリチュアリティの意義を探る研究にここ数年たずさわり、スピリチュアリティを「問い」として理解することを通じて、スピリチュアリティを誰もの問題意識として理解する道を探ってきたからだ。
 生きていることの意味。人の存在のかけがえのなさ。運命との向き合い。大切な人の喪失と悲嘆にどう対処するか。そうした人生の根本的な関心事に真摯に向き合う姿勢、それが「問い」としてのスピリチュアリティだ。
 単なる心理的な問題には還元できない、そうした問題意識を適切に表現する言葉が、これまでの日本にはなかった。だから、人生の危機に直面して、なにが問題になっているか、それとして自覚することが難しかった。本来「宗教」が本領を発揮すべきテーマなのだが、宗教離れ、ひいては宗教アレルギーが進んでいる日本社会では「宗教的」と表現するわけにもいかない。
 そのため、悩める人が自分の問題をどんな種のものか認識することも難しいし、社会的、あるいは臨床的に、どのように援助を提供すべきなのかも問題が見えにくい。
 それを見えるようにしてくれるのが、「スピリチュアリティ」という言葉なのだ。
 特定の「答え」となる世界観を含まない、「問い」の次元のスピリチュアリティを確保することに私がこだわってきた理由は、そこにある。
 逆に言うと、最近のスピリチュアル・ブームのなにが問題かといえば、あまりに特定の答え=霊的世界観を含んだスピリチュアリティが圧倒的に普及し、スピリチュアリティを「問い」として、誰しも問題として受け止める道がふさがれかねない、ということなのだ。字面の上では似ているだけに、安易に混同されたり、誤解されたりした経験を持つスピリチュアルケア・ワーカーの方々は、さすがに多いようだ(「オーラでも見えるんですか?」と聞かれた経験のあるというお話も耳にした)。
 そういうわけで、スピリチュアリティをまず「問い」として理解する見地から、スピリチュアルな問題の大切さが社会全般の人びとに認識されるように。そしてまた、「スピリチュアリティ」という言葉を用いて、普通の人々が自分の抱える問題を理解し、表現し、また語り合えるような状況を日本社会に広く浸透させたい。私自身もそのために努力したいし、現場のケア実践家の方々も、このような目標も実践の視野に入れていただければ幸いだ。人びとが平素からスピリチュアルな問題の大事さを理解し、考え、それぞれの死生観、「答え」を育てていくことができていれば、それは「予防的スピリチュアルケア」になる。そんなことを、話してきた。
 研究発表のなかで、とあるケアワーカーの方が、ケアの相手の方から「それは私のスピリチュアリティとは違います」ということを告げられた、という経験を報告されていた。
 この話は印象深かった。専門職でない、ケアを受ける側の人が、「スピリチュアリティ」という言葉を用いて自分のありようを表現されているからだ。
 このようなことが、もっと一般の人々に広がること。それが、求められることだと思う。
 そのために、今回の私の報告で、少しでも何かを寄与できただろうか。

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