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スピリチュアリティで大事なこと [学問・研究]

 帰国後、大学の講義を持つのは今日から再開。姫路で「臨床哲学」を持つ。
 今回はスピリチュアルケアの話。将来医療職に就く学生たちが対象だから、是非とも身につけてほしい姿勢、考え方だ。
 WHOの「健康」定義改正案に表れた「スピリチュアル」の文言。人間には身体的・心理的・社会的な次元に加えて、スピリチュアルな次元が欠かせない一部をなしていること。マスメディアでの江原啓之氏を中心としたスピリチュアル・ブーム(大衆的スピリチュアリズム)はスピリチュアリティの一部とは言えなくないが、決してそのすべてではなく、スピリチュアルケア、スピリチュアルペインといった事柄はまず区別して理解すること。人間がもとより「宗教的な」存在であり、無宗教を自認する人間でも別の形で宗教性を満たそうとしている場合がたいていであること。そして、スピリチュアルケアの基本姿勢…などを話し、そのうえで受講生たちに、自らの課題としてスピリチュアルペインにどう向き合ったらよいか、を参加型の課題として考えてもらった。
 私などは、参加型・対話型の要素を講義に入れないと、どうしても授業ができない体質にまでなりつつある。

 というわけだが、思うに、出発点としてまず大事なのは、「スピリチュアリティ」という事柄そのものについての理解。それを、もっと多くの人が共有すること―というか、誰にも浸透し、自分の関心を言い表すために使える言葉となることだ。決して、研究者や専門職だけの言葉になってはならない。
 間もなく刊行される拙著―見たら、もう「これから出る本」にも載っていた―も、そんな目的で書いたものだ。
 人間には、身体・心理・社会とともに、スピリチュアリティという欠かせない次元があること。そして、この次元には特有の問題、ペインというものがあって、身体・心理・社会の次元の問題に対して相応の対処法があるように、相応の接し方があるということ。そういう理解が、それこそ誰にも共有されるものになっていくことが、これからの日本には必要だと私は確信している。

 人の抱える問題が、どんな次元に属する事柄なのか。それを適切に理解することは、「ケア」の場面に限らず、およそ人間に接するあらゆる機会に大切なことだろう。
 たとえば、愛情に飢えている子どもを満足させようとして、いっそうのモノを与える。
 現代医学で治せる病気なのに、快癒をひたすら神に祈る。
 職を失い、これからどう生活していくかで思い悩む人に、悩んでいるのだからと、カウンセラーや精神科医への相談をすすめる見当違い。
 こうした問題認識の間違いは、何の解決も提供できないばかりか、その相手を愚弄することにもなりかねない。
 「自分が何のために存在しているのか?」「この世の生が終わった後、私はどこへ行くのだろうか?」「どうして私はこんな運命に巻き込まれなければならなかったのか?」―そうした、スピリチュアリティの次元に属する苦悩も、それとして受け止められなければ、人を二重の疎外感に追い込むことになる。自分の苦悩が解決されないでいることに加えて、その苦悩が他者から受容されなかった、という二重だ。

 しばしば聞かれるのが、「心理的」と「スピリチュアル」の違い。いずれも、心の問題に深く関わることだから、区別は要るのか、という疑問も当然ありうる。私ならばこのように説明する。というか、今日、した。
 「心理的」の場合、不安とか抑圧とか、心の状態そのものを改善すればまず済む問題。娯楽や酒食、身近な人への相談からカウンセリング、薬物まで方法はいろいろあるにせよ、基本的にはそういうものとして理解できる。それに対して、「人生の意味」「自分の存在意義」「運命との向き合い」といったスピリチュアルな問題は、それが原因で苦悩や虚脱感が生じたとしても、その心の状態だけを改善しようとしても何にもならない。生きることの意味や、死後の運命について納得できる枠組み、人生観、世界観というものを見いだしてはじめて満たされるものだ。
 かつてロゴセラピーの創始者である精神科医V. フランクルにかかった、「人生の無意味さ」に苦悩して訪れた患者が、はじめから「薬は要りません」と拒否したのは、そんな事情を自身がよく認識していたからだろう(フランクル自身、もともと薬を処方するつもりはなかったが)。

 かつての日本でも、また今なお世界の多くでは、「宗教」がその答えを提供するものだ。だが「人間のデフォルトは無宗教」という人間観が当然視されているかにみえる今日の日本社会では、まず「宗教」に支えを求めることが難しくなっている。それだけ、スピリチュアリティの理解が大事になっている。
 まず、「問題」としてスピリチュアリティの大事さが広く認知されること。そのための努力こそ、いわば社会的なレベルでのスピリチュアルケアとして、もっと徹底して取り組まれる必要があると思う。
 私が世のスピリチュアリズムのブームに懸念するのは、「スピリチュアリティ」のごく一部しかカヴァーしていないこの用法が、普及するあまりそのすべてであるかのように受け取られ、人間にとって本質的なものとしての、もっと普遍的なスピリチュアリティに対する理解が、妨げられていると思うからだ。それ以上でも以下でもないし、このブームそのものを単に否定的に見てはいない。
 ということで、これについての私の考えは、詳しくは近刊『問いとしてのスピリチュアリティ』(京大学術出版会)にて。

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