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 人を「足し算」で考えること [学問・研究]

 先週に引き続き、今日の教育人間学の講義でもジェンダーの問題を扱ったが、そこで主題的に取り上げたのが人を「足し算」で見ることの意義だ。それが、一人ひとりのかけがえのなさ、尊厳。それを尊重したうえでの平等を考えていくうえで、この視点をとることが大事だ、という点だ。
 これは、「割り算」や「引き算」の考え方と対比をなすものだ。「割り算」の思考とは、人間を分類し、一人ひとりの人間を、そのグループの一員として扱う考え方だ。

 ジェンダーの問題に即すれば、まず人を「男/女」に分けること。一人ひとりを、そのどちらかのカテゴリーの一員として分類すること、だ。
 この考え方をとると、両性の間に越えられない壁ができてしまう。それぞれの「らしさ」、役割が定まっているように映ってしまう。「男女は根本から別の生き物」という具合だ。「文系/理系」「日本人/外国人」なども、「割り算」によって必要以上に高い壁を築いてしまっている実例だろう。
 また、女性はみんな同じようなもの、男性もみんな同じようなもの、という具合に、グループ内の個人差が見逃されやすい。一人ひとりの人間が、「女」「男」という類型の一例でしかないように見えてしまいがちだ。
 こうした割り算型の思考は、一人ひとりの違いを見ず、ステレオタイプで扱いがちになるところに、落とし穴がある。「差別」につながることもある。「女性だから…に決まっている」「…人だからどうせ~」といった具合に。
そういう意味で、明らかに限界がある。先週の講義で、世に流通するさまざまな「女は…」「男は…」式の一般論について、どこまであてはまると思うか受講者の皆さんに考えてもらったのも、この「割り算」型思考の問題点に気づいてもらうことが目的だ。

 男女平等、一般にジェンダー・フリーと呼ばれる主張は、多く「引き算」の考え方をとる。個々人を制約する「男/女らしさ」や仕事/家庭などの性役割を「とらわれ」として、そこから自由になることをめざす。男女を隔てるさまざまな慣行を退け、同じ人間として扱うように求める。そういう意味で、さまざまな「らしさ」「役割」を「引いて」いくというわけだ。
 それは十分に理解できるし、「引き算」が必要な場面があることもわかる。だがこういうタイプの平等論の限界は、ひとつに、どこまで「引き算」すべきかが判然としないことだ。更衣室のように、世には男女をどうしても区別しなければならない場面もある。それに、「男らしさ」「女らしさ」にはいい面も多い。「男らしさ」とされる積極性、強さ(暴力的でない)、勇敢さ、責任感など。「女らしさ」とされる優しさ、寛容、包容力、繊細さ。こうしたことを単に「とらわれ」として引き算の対象としていくのは、日常的、常識的な実感にも合わず、なかなか理解、支持されるものではない。「女らしさ、男らしさでなく自分らしさ」といっても、「らしさ」を引き算していくだけでは一体何が残るのか、という批判もある。

 だからもう一つ「足し算」という考え方を導入したらどうか、という話だ。人を「足し算」で見るとは、グループよりもまず個々の人間から出発し、その人の特徴、属性をいろいろと足し加えていく、という考え方だ。「日本人」だからといって外国の人たちと絶対的に分かたれるわけではない。「「日本人であること」はあくまで自分の属性のひとつにすぎず、他の属性を挙げていけば外国の人たちとも相容れる要素はいっぱいある。
「男と女は理解しあえない」といっても、「男であること」「女であること」はその人の個性の一部分にすぎず、個々の男女を見れば相通じる部分、理解しあえるもかなりあるはずだ。
 むしろ、「男女は違うが、違いは男女差だけではない」「人間を形づくる要素は、性差以外にたくさんある」ことを強調して、性差だけで役割を定めようとする考え方を相対化するほうが、まともな意味での男女平等も達成できるのではないか。確かに「男らしさ」「女らしさ」も大事な価値だが、他の価値もいっぱいあるから、それ以外で勝負したっていい。そういう考え方で望めないものだろうか。こうしてこそ、「性差」だけではとらえられない一人ひとりの違いに目を留められる。一人ひとりの個性と自由を、もっと具体的な形で尊重できる、と思う。

 この発想は、実はいろいろな場面でも応用できる。たとえば、子どもが「勉強が得意でない」というのはあくまでその人の特徴の一つでしかない。だったらサッカーとか絵とか、別の得意分野で勝負してもいい。そういう発想にもつながる。子どもを「優等生/劣等生」と割り算して、後者のグループに入れ込んでその子のアイデンティティを全面的に規定するようなことをしなければいい。安易に分類して、「学業の出来」という側面でしか子どもを見ないからその子を追い詰めるのだ。
 「徒競走で順位をつけない」は、都市伝説に過ぎないという説もあるが(経験談は聞いたことがあるから皆無ではないだろう。どこまで広く行われているかは疑問だ)、もし実行されているとしたら、行きすぎた「引き算」型の平等を追求した落とし穴だ。「足の速さ」は子どもたちのごく一面でしかない。足が遅い子は別の面で勝負できればいい。勉強はダメだが足の速さなら誰にも負けない、という子どもには本領発揮の機会をあげるのはいいではないか。かつて「生徒全員に3の成績をつけた音楽教師」は実際にいたが、同様に音楽で勝負したい子どもの本領発揮のチャンスを奪った、「引き算型平等」の行きすぎた帰結だ。

 「障碍も個性のうち」というのも、本来のメッセージとしては、こういうものではないかと思う。「健常者/障害者」のような割り算では両者の間に不必要に高い壁を設け、まったく異なる人間であるかのように相手を扱ってしまいがちになる。だからといって、単純に「同じ人間としての平等」を主張するだけでは抽象的だ。だが「障碍」をあくまで一つの一面として、一人ひとりのすべての面をみて、人間全体を理解しようとする必要がある。いわゆる健常者の側にも、一人ひとり大いに違いがあるように、だ。このような足し算こそがノーマライゼーションの足がかりとなる考え方にならないか。このような解釈が見当外れだったらお許しいただきたい。
 もちろん状況によっては「引き算」や「割り算」の思考が有用だが、これまで「足し算」の思考が積極的に強調されてこなかったのも事実。だから、こういう視点を補いたい。三つの思考パターンを、それと自覚した上で時に応じて使いこなせるようになれば、それがいちばんいい。

実際の適用例
割り算:足の速い子と遅い子を、競走を通して分ける
引き算:足の速さで差別化するのは可哀想だから、順位をつけない
足し算:足が遅いなら、他のことで勝負できればいい

割り算:私は日本人、…人とは根本的に違う
引き算:人類みな兄弟
足し算:私は日本人であり、…であり、~であり、そして××であり…

割り算:男は男らしく、女は女らしく
引き算:男/女らしさから自分を解放しよう
足し算:男/女らしさもいいが、それ以外で勝負するのもいい

 ちなみに今日論じられている―サンデルのハーバード白熱教室でもおなじみ―社会思想を参照枠として用いれば、「割り算」は伝統的な役割や階層区分に基づくものが多いから、保守主義。「引き算」は、個々人の具体的な属性を度外視した、抽象的な「自由な主体」(負荷なき自己)を出発点にするから、リベラリズムやリバタリアニズムに親近。「足し算」は、「負荷ありし自己」として、個々人の多元的な属性に目を留めるから、コミュニタリアニズムに近い考え方だろう。
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zephyrus

私のブログで初めてniceをしていただいて、びっくりしました。ありがとうございます。それでayashiさんのブログを見に来ました。

人を「足し算で考えること」 読んで参考になりました。





by zephyrus (2011-07-31 08:58) 

ayashi

コメントありがとうございます。
自然観察関連のプログをいろいろ見ていたなかで、Zephyrus さんのブログも拝見させていただきました。
生きものへの愛情が伝わってきて、楽しく読ませていただいています。
私の構想する「足し算」の考え方も、役立てていただけると嬉しいです。
私のほうでも野鳥を中心に自然観察記もいろいろ書いておりますので、こちらの方もよろしくお願いします。
by ayashi (2011-07-31 19:26) 

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