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ひとつの最終講義と「瞬間の分散」 [学問・研究]

 今日は、かなりの寂しさを感じる、別離の日でもあった。
 前期の間、大阪へ教えに行っていた「臨床倫理学」講義の最終回。受講者のみなさまとのやりとりも毎回、充実していたから、今日で最後になるのが、もう数週前から惜しくてならなかった。
 私の授業の常として「対話」型。尊厳死や臓器移植といった生命倫理の諸テーマについて、事例や倫理思想を紹介しつつ、受講者のあいだでも意見を交わしあい、自分で考えていただくスタイル。
 「論理・想像力・対話」が三つの柱。自分がそう主張する根拠を明確にすること。出来合いのものの見方にとわれず、想像力を働かせて「隠れた問題」を見いだすこと。他なる意見に耳を傾け、考えを深めること。
 社会人のケアボランティア養成コースということもありみなさん熱心で、医療現場の経験を持った受講者も少なくなく、その実体験を踏まえた話は私のほうでもいろいろと考えさせられ、私自身も各回の提出物を通して「対話」に入ることができていた。
 だからこそ、終わるのが惜しい。
 もともと私が物を「捨てられない人」だからでもあるが、特にこの講義で受講者のみなさんが出してくれた提出物は、半永久保存でことあるごとに読み返し、「対話」を再現したいとも思う。

 人と人とのかかわりについて、こんなふうなイメージを抱くことがある。
「影響」というかたちで、そのつど、「自分」は無数の部分に分裂する。その時々にかかわった人々や物事のなかに、わずかでもその跡を残していく。そうして、同じようなことが各瞬間に繰り返されていく。
逆に言うと、私自身のなかにも、これまでに出会った人々や物事の「瞬間のかけら」が取り込まれているということ。そういうかけらを積み重ねて、人の存在は成り立っているということ。
 そうやって、この講義のなかでは、私自身の「瞬間のかけら」もいくつも、受講者のみなさんのなかに。そして逆に、受講生の方々の「瞬間のかけら」も、私のなかに。
 そんなふうにして、一人ひとりの存在はできていく。
 これは、私自身が哲学研究者としてはメインに取り組んでいる、A. N. ホワイトヘッドの哲学からインスピレーションを受けたイメージだ。わかる人にはわかると思う。

 これを受けて、こんなふうなイメージ・ワークを紹介した。

 自分の存在が瞬間ごとに、無数の「影響力」として飛び散り、それがわずかばかりでも、他者や物の一部に刻印され、いつまでも一定の作用を及ぼして残っていく、というイメージ。しかも、その影響は、永久に消えてなくならない。
 「瞬間ごとに」というイメージが難しいなら、特別に意味深い瞬間を取り上げてもよい。
 またそれは、自分自身だけでなく、大切な人であってもいいだろう。
 この世を去った人でも、その人がこの地上に生き、その各瞬間に残していった「影響力」という名のかけらは、目には見えなくても、いたるところに散らばっている。
 あなたにとって大切な人であれば、ほかならぬあなた自身のなかでも、だ。

 理論としては恐ろしく難解で、まともに取り組めば専門研究者でも2年ぐらい棒に振りかねないホワイトヘッドの哲学だが、わかれば間違いなく「世界の見方が変わる」哲学の一つ。その基本的な見地そのものは、専門家の枠を超えてもっと多くの人が共有できていいと思う。
 それだけに、「ホワイトヘッド的に世界を見る」イメージワークというのも、考えているところなのだ。

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