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「講演」は初めて [学問・研究]

「講演」というのは実質的には初めてかもしれない。
 講義や学会発表などで大勢の人の前で話したことは何度もあるが。せいぜい、何年か前に「スピリチュアリティと教育」をテーマとしたシンポジウムのパネリストを務めたことがある程度。
 しかも、大それたことに「基調講演」なる題目で話すと言うのだから。これは、それだけでも疲れた。
 新年度から非常勤で受け持つことになった死生学、正式には「臨床哲学」の概要について話すということだった。ということで、「臨床哲学としての哲学」「広義の哲学と狭義の哲学」「スピリチュアリティと臨床哲学」「死の人称性とそのからみあい」といった内容を話す。
 哲学的思考の原点に、「汝自身を知れ」といった、「自分自身を巻き込んで問う」という姿勢がある以上、哲学そのものなかに「臨床哲学」への志向は含まれている。だから一面を強調して言えば、「臨床哲学としての哲学」ということにもなる。そういう話(その点で、「臨床/基礎医学」とか、「臨床/実験心理学」のような対比とは別の特質がある、ということも)。
 それから、私自身が最近関心を寄せている、〈広義の哲学〉、つまり、「松下幸之助の水道哲学」「イチローの野球哲学」といったような一般的な「哲学」の用法に学び、誰でもの問題として哲学をとらえなおしてみる、という話。今年の国際哲学オリンピアードの課題の一つだった「誰もが自分の哲学を持っている Everyone has his or her own philosophy」も取り上げもしてみた。
 それから、私の中心テーマである「スピリチュアリティ」の問題。この言葉が日本社会に及ぼす潜在的なインパクト―宗教への信仰を問わずに生と死の問題を正面から語れる―こと、世の「スピリチュアル・ブーム」にどう向き合うかという問題、そしてこの概念が「臨床哲学」的な関心と非常に親和的である点。
 そして、「死の人称性のからみあい」という点では、死生学では常識となっている「一人称/二人称/三人称の死」というモデルを受けつつ、これを「別々の死」のように扱うのは実は死生学の落とし穴であり、人称はどのようにも転化・反転しうること、からみあうことを考える必要がある、という話に。
 詳しく語ると話の再録になってしまうから、とりあえずこの辺だ。

 場所は、姫路。
 これが、その証拠だ。

P1020165(1).JPG

 門の外から写しただけだが、駅に着けば電車の車窓からも見え、大学に向かう途中のバスでもお堀をぐるりと周るように通るなど、さすがにお城の街だ。
 しかし前期、週一回京都から姫路まで通うというのは結構な長旅だ。最初は同じ兵庫県だから「神戸の辺りへ行く」ようなものだと思っていたら大間違い。神戸-姫路間は京都-神戸間に近い距離がある。
 帰りの車窓、なかなか夕陽が美しかったのだが、シャッターチャンスを逸して残念だ。

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