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実は結構個性的だった? わが母校 [学問・研究]

 私の母校のうち、高校、大学(+院)は個性的であることを売りにするようなところだった。だが中学校は、ごく普通にあるような公立中。教育不熱心な親に恵まれた(笑)おかげで中学受験の苦労とは無縁、また私立に行かなかったために「鶏口牛後」状態ではあったが。

 別に決定的に嫌な思い出はないから「自分が3年間学んだ学校」としての愛着ぐらいはあるけれども、特別なものは何もない、どこにでもあるような学校の一つだと思っていた。当時でも近辺で珍しい「男子丸刈り」の校則が皮肉にもわが校の特徴だったかもしれないが(私が卒業して数年後に廃止。ただ髪型や服装での自己主張に全然興味が無かった当時の―今だってそんなに変わらないが―私にはそんなに苦痛ではなかった)。

 けれども思い返してみると、実はかなり個性的な教育も行なわれていたのか、と感じられてきた。少なくとも一部の教科、一部の先生では。通り一遍等の授業も多かったが。

 美術では製作する作品のコンセプトについて一種「哲学的に」考えさせるようなこともたびたびだったし、創作に先立って素材について「木とは」「土とは」「紙とは」を一緒に考えるような機会も多かった。定期試験も「木で物を作ることはどういうことか」というような、大学の試験のような論述問題が毎回だったことを思い出す。

 3年生のときの国語の先生(かつ担任)の授業も、「この小説を映画化した場合の宣伝文を書く」「主人公になったつもりでこの事件の起こった日の日記を書いてみる」など、いろいろと作品世界の理解を深める独創的な企画があった。教室も凄く盛り上がっていた。名古屋市内ながら進学熱の強くない、片田舎的な学校だからこそできたのかもしれないが、体験としては今も印象深い。国語が好きな科目になったのはそれ以降だと思う。私にとってその先生は小学校から高校までではいちばんの「思い出の先生」(『ウルトラマンメビウス』第41話サブタイトルより)だ。
  「1年の計は元旦にあり、新しい1年がどんな年になるかは、年が変わるそのときに、何をしていたかで決まる」というその先生の教えは、私は今なお実践しているぐらいだ。

 2年の夏休みには「進路」にまつわるグループ研究というのがあって、私の前年の「いろいろな高校を自分たちの足で調べてくる」企画は地方のTVニュースでも取り上げられたぐらいだから、結構画期的なものだったのだろう。私の学年ではいろいろな職業について、実際に働いている人たちにインタビューして仕事内容やなり方などを調べてくるものだった(我々はかなり手を抜いて「先生」にして、出身小学校に行って聞いたが)。これも実は時代を先取りしていたのかもしれない。
 転校経験がない私としては当然一校しか直接は知らず、同時期の他の学校がどうだったのかはわからない。本当に独自なのかどうかは知らない。けれども意外と出来た体験は貴重なものだったのかもしれないと、ふと思い返しもした。
 今は、どんな校風になっているかは全く知らないのだが。

ひとつの最終講義と「瞬間の分散」 [学問・研究]

 今日は、かなりの寂しさを感じる、別離の日でもあった。
 前期の間、大阪へ教えに行っていた「臨床倫理学」講義の最終回。受講者のみなさまとのやりとりも毎回、充実していたから、今日で最後になるのが、もう数週前から惜しくてならなかった。
 私の授業の常として「対話」型。尊厳死や臓器移植といった生命倫理の諸テーマについて、事例や倫理思想を紹介しつつ、受講者のあいだでも意見を交わしあい、自分で考えていただくスタイル。
 「論理・想像力・対話」が三つの柱。自分がそう主張する根拠を明確にすること。出来合いのものの見方にとわれず、想像力を働かせて「隠れた問題」を見いだすこと。他なる意見に耳を傾け、考えを深めること。
 社会人のケアボランティア養成コースということもありみなさん熱心で、医療現場の経験を持った受講者も少なくなく、その実体験を踏まえた話は私のほうでもいろいろと考えさせられ、私自身も各回の提出物を通して「対話」に入ることができていた。
 だからこそ、終わるのが惜しい。
 もともと私が物を「捨てられない人」だからでもあるが、特にこの講義で受講者のみなさんが出してくれた提出物は、半永久保存でことあるごとに読み返し、「対話」を再現したいとも思う。

 人と人とのかかわりについて、こんなふうなイメージを抱くことがある。
「影響」というかたちで、そのつど、「自分」は無数の部分に分裂する。その時々にかかわった人々や物事のなかに、わずかでもその跡を残していく。そうして、同じようなことが各瞬間に繰り返されていく。
逆に言うと、私自身のなかにも、これまでに出会った人々や物事の「瞬間のかけら」が取り込まれているということ。そういうかけらを積み重ねて、人の存在は成り立っているということ。
 そうやって、この講義のなかでは、私自身の「瞬間のかけら」もいくつも、受講者のみなさんのなかに。そして逆に、受講生の方々の「瞬間のかけら」も、私のなかに。
 そんなふうにして、一人ひとりの存在はできていく。
 これは、私自身が哲学研究者としてはメインに取り組んでいる、A. N. ホワイトヘッドの哲学からインスピレーションを受けたイメージだ。わかる人にはわかると思う。

 これを受けて、こんなふうなイメージ・ワークを紹介した。

 自分の存在が瞬間ごとに、無数の「影響力」として飛び散り、それがわずかばかりでも、他者や物の一部に刻印され、いつまでも一定の作用を及ぼして残っていく、というイメージ。しかも、その影響は、永久に消えてなくならない。
 「瞬間ごとに」というイメージが難しいなら、特別に意味深い瞬間を取り上げてもよい。
 またそれは、自分自身だけでなく、大切な人であってもいいだろう。
 この世を去った人でも、その人がこの地上に生き、その各瞬間に残していった「影響力」という名のかけらは、目には見えなくても、いたるところに散らばっている。
 あなたにとって大切な人であれば、ほかならぬあなた自身のなかでも、だ。

 理論としては恐ろしく難解で、まともに取り組めば専門研究者でも2年ぐらい棒に振りかねないホワイトヘッドの哲学だが、わかれば間違いなく「世界の見方が変わる」哲学の一つ。その基本的な見地そのものは、専門家の枠を超えてもっと多くの人が共有できていいと思う。
 それだけに、「ホワイトヘッド的に世界を見る」イメージワークというのも、考えているところなのだ。

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 人を「足し算」で考えること [学問・研究]

 先週に引き続き、今日の教育人間学の講義でもジェンダーの問題を扱ったが、そこで主題的に取り上げたのが人を「足し算」で見ることの意義だ。それが、一人ひとりのかけがえのなさ、尊厳。それを尊重したうえでの平等を考えていくうえで、この視点をとることが大事だ、という点だ。
 これは、「割り算」や「引き算」の考え方と対比をなすものだ。「割り算」の思考とは、人間を分類し、一人ひとりの人間を、そのグループの一員として扱う考え方だ。

 ジェンダーの問題に即すれば、まず人を「男/女」に分けること。一人ひとりを、そのどちらかのカテゴリーの一員として分類すること、だ。
 この考え方をとると、両性の間に越えられない壁ができてしまう。それぞれの「らしさ」、役割が定まっているように映ってしまう。「男女は根本から別の生き物」という具合だ。「文系/理系」「日本人/外国人」なども、「割り算」によって必要以上に高い壁を築いてしまっている実例だろう。
 また、女性はみんな同じようなもの、男性もみんな同じようなもの、という具合に、グループ内の個人差が見逃されやすい。一人ひとりの人間が、「女」「男」という類型の一例でしかないように見えてしまいがちだ。
 こうした割り算型の思考は、一人ひとりの違いを見ず、ステレオタイプで扱いがちになるところに、落とし穴がある。「差別」につながることもある。「女性だから…に決まっている」「…人だからどうせ~」といった具合に。
そういう意味で、明らかに限界がある。先週の講義で、世に流通するさまざまな「女は…」「男は…」式の一般論について、どこまであてはまると思うか受講者の皆さんに考えてもらったのも、この「割り算」型思考の問題点に気づいてもらうことが目的だ。

 男女平等、一般にジェンダー・フリーと呼ばれる主張は、多く「引き算」の考え方をとる。個々人を制約する「男/女らしさ」や仕事/家庭などの性役割を「とらわれ」として、そこから自由になることをめざす。男女を隔てるさまざまな慣行を退け、同じ人間として扱うように求める。そういう意味で、さまざまな「らしさ」「役割」を「引いて」いくというわけだ。
 それは十分に理解できるし、「引き算」が必要な場面があることもわかる。だがこういうタイプの平等論の限界は、ひとつに、どこまで「引き算」すべきかが判然としないことだ。更衣室のように、世には男女をどうしても区別しなければならない場面もある。それに、「男らしさ」「女らしさ」にはいい面も多い。「男らしさ」とされる積極性、強さ(暴力的でない)、勇敢さ、責任感など。「女らしさ」とされる優しさ、寛容、包容力、繊細さ。こうしたことを単に「とらわれ」として引き算の対象としていくのは、日常的、常識的な実感にも合わず、なかなか理解、支持されるものではない。「女らしさ、男らしさでなく自分らしさ」といっても、「らしさ」を引き算していくだけでは一体何が残るのか、という批判もある。

 だからもう一つ「足し算」という考え方を導入したらどうか、という話だ。人を「足し算」で見るとは、グループよりもまず個々の人間から出発し、その人の特徴、属性をいろいろと足し加えていく、という考え方だ。「日本人」だからといって外国の人たちと絶対的に分かたれるわけではない。「「日本人であること」はあくまで自分の属性のひとつにすぎず、他の属性を挙げていけば外国の人たちとも相容れる要素はいっぱいある。
「男と女は理解しあえない」といっても、「男であること」「女であること」はその人の個性の一部分にすぎず、個々の男女を見れば相通じる部分、理解しあえるもかなりあるはずだ。
 むしろ、「男女は違うが、違いは男女差だけではない」「人間を形づくる要素は、性差以外にたくさんある」ことを強調して、性差だけで役割を定めようとする考え方を相対化するほうが、まともな意味での男女平等も達成できるのではないか。確かに「男らしさ」「女らしさ」も大事な価値だが、他の価値もいっぱいあるから、それ以外で勝負したっていい。そういう考え方で望めないものだろうか。こうしてこそ、「性差」だけではとらえられない一人ひとりの違いに目を留められる。一人ひとりの個性と自由を、もっと具体的な形で尊重できる、と思う。

 この発想は、実はいろいろな場面でも応用できる。たとえば、子どもが「勉強が得意でない」というのはあくまでその人の特徴の一つでしかない。だったらサッカーとか絵とか、別の得意分野で勝負してもいい。そういう発想にもつながる。子どもを「優等生/劣等生」と割り算して、後者のグループに入れ込んでその子のアイデンティティを全面的に規定するようなことをしなければいい。安易に分類して、「学業の出来」という側面でしか子どもを見ないからその子を追い詰めるのだ。
 「徒競走で順位をつけない」は、都市伝説に過ぎないという説もあるが(経験談は聞いたことがあるから皆無ではないだろう。どこまで広く行われているかは疑問だ)、もし実行されているとしたら、行きすぎた「引き算」型の平等を追求した落とし穴だ。「足の速さ」は子どもたちのごく一面でしかない。足が遅い子は別の面で勝負できればいい。勉強はダメだが足の速さなら誰にも負けない、という子どもには本領発揮の機会をあげるのはいいではないか。かつて「生徒全員に3の成績をつけた音楽教師」は実際にいたが、同様に音楽で勝負したい子どもの本領発揮のチャンスを奪った、「引き算型平等」の行きすぎた帰結だ。

 「障碍も個性のうち」というのも、本来のメッセージとしては、こういうものではないかと思う。「健常者/障害者」のような割り算では両者の間に不必要に高い壁を設け、まったく異なる人間であるかのように相手を扱ってしまいがちになる。だからといって、単純に「同じ人間としての平等」を主張するだけでは抽象的だ。だが「障碍」をあくまで一つの一面として、一人ひとりのすべての面をみて、人間全体を理解しようとする必要がある。いわゆる健常者の側にも、一人ひとり大いに違いがあるように、だ。このような足し算こそがノーマライゼーションの足がかりとなる考え方にならないか。このような解釈が見当外れだったらお許しいただきたい。
 もちろん状況によっては「引き算」や「割り算」の思考が有用だが、これまで「足し算」の思考が積極的に強調されてこなかったのも事実。だから、こういう視点を補いたい。三つの思考パターンを、それと自覚した上で時に応じて使いこなせるようになれば、それがいちばんいい。

実際の適用例
割り算:足の速い子と遅い子を、競走を通して分ける
引き算:足の速さで差別化するのは可哀想だから、順位をつけない
足し算:足が遅いなら、他のことで勝負できればいい

割り算:私は日本人、…人とは根本的に違う
引き算:人類みな兄弟
足し算:私は日本人であり、…であり、~であり、そして××であり…

割り算:男は男らしく、女は女らしく
引き算:男/女らしさから自分を解放しよう
足し算:男/女らしさもいいが、それ以外で勝負するのもいい

 ちなみに今日論じられている―サンデルのハーバード白熱教室でもおなじみ―社会思想を参照枠として用いれば、「割り算」は伝統的な役割や階層区分に基づくものが多いから、保守主義。「引き算」は、個々人の具体的な属性を度外視した、抽象的な「自由な主体」(負荷なき自己)を出発点にするから、リベラリズムやリバタリアニズムに親近。「足し算」は、「負荷ありし自己」として、個々人の多元的な属性に目を留めるから、コミュニタリアニズムに近い考え方だろう。

「男は…」「女は…]という一般論 [学問・研究]

 今回の教育人間学の講義では、独自の切り口から「ジェンダー」の問題に切り込んでみた。あえて、主流のジェンダー論とは距離を置いた見地から。
 ポイントは、男女いずれについても、「男は…」「女は…」と、なぜこうも一般化が簡単になされるのか、ということだ。
 すでに受講生たちからも事例を集めてもらっているが、世の中にはおびただしい数の「男は…」「女は…」式一般論が出回っている。『話を聞かない男、地図を読めない女』「男は外見でしか女を見ない」「男は女を支えてやるもの」「女の人ってよく愚痴をいいがち」「女は追いかけられる存在であるべき」などなど。
 酒の席その他でもしばしば話題になる。また、たった一人の異性のケースから、即「男って…」「女って…」と拡大解釈するパターンもいろいろだ。たまたま化粧品に多額のお金をかける妻をもって「女はどうしてこうも外見を気にする生き物なのか」とぼやく男性とか、たった一人の男性に裏切られただけで「男って信用できない」と嘆く女性とか…。
 私自身の過去の経験だと、ある女性の友人から「男の人って独りの時間を大事にするんですね」と言われて物凄く違和感を持ったのを覚えている。私自身はまさにその通りだが、独りの時間を大事にしたい女性なんていっぱい知っているし、逆に群れたがる男性も多い。当の女性が独りでいることを好まないがゆえに、私の立場との違いが、「男女の違い」として拡大解釈されたようなのだ。
 逆に、自分のことで主張する場合、しばしば「男は仕事に命を賭けてるんだ」とか「女は一人じゃ耐えられないの」とか、自分の性全般の立場のように語ることも多くのケース。実際には、こういうケースの圧倒的多数は、「俺は…」「私は…」と翻訳して聞いたほうが、まず当たっている。
 ちょっとした個々人の違いが、すぐさま性差全般の問題に拡大されてしまうのだ。
 その結果、一人ひとりの違いが見られない。何より問題なのが、女も男もそれぞれ十人十色であるはずなのに、二分法で十把ひとからげに扱われ、個としての立場が顧みられないということだ。
 「男と女は別の生き物」式の言説は『話を聞かない男…』をはじめよく聞くが、それでは男同士、女同士は同じ生き物と言い切れるのか。同性なら完璧に理解できるというのか。この点が、あまり指摘されないが実は決定的に見落とされた点だ。
 私個人でも「男心がわからない男」「女心がわからない女」は結構知っている(かく言う当人も含めて)。
 そんなわけで今回の授業では、すでに集めてもらった諸般の「男は…」「女は…」式の一般論を事例に、受講生の間でグループワークを行い、それぞれ、自分や他の同性にどれほどあてはまると思うか、いろいろと語り合う機会を設けた。
 もちろん、「その通りだと思う」という意見も少なくなかったが、「自分は違う」「本当に誰も彼もそうなのか?」という意見も、いろいろと出てきた。
 「男はプライドの生き物」―同意する男子学生も多かったが、「プライドの高い女性」も少なくないことも。
 「過去の恋を男は名前をつけて保存、女は上書き保存」―最近しばしば聞かれる、ほとんど格言になっているフレーズで、納得する意見も男女とも多かったが、「個人的にはあてはまらない」という声もちらほら。
 「男は手料理に弱い」―逆もまた然りでは、という声まで。最近は料理する男子も増加しているからか。
 「女性は男性に比べて論理的でない」―これは許しがたい、という意見は女子学生の間から。実際、いろいろな期末レポートなどを採点していても、こういう決めつけがいかに現実に合わないかはよく承知だ。
 女性雑誌のいわゆる「モテ特集」、いかにも「男性が好む」かのように書いてあるが、実際は女性目線で、雑誌に書いてあるように必ずしも男性が思っているわけではない、との声も(女性誌・男性誌それぞれの「モテ特集」―量的には前者が圧倒的に多いが―が実際にどこまで通用するのかを、それぞれ異性に判定してもらう、という機会を設けてみても面白いかもしれない)。
 「ロマンチスト」「子どもっぽい」など、男女とも、相手の性に対して言い合っているようで面白い。
 中には、「男は…」「女は…」の一般論で、相互に矛盾している例もあったりする。
 などとこんな具合、「男女差といいながら、実はかなり個人差が大きい」ということを、いろいろな事例に照らしてみるとますます見えてくると思う。それが、今回のワークショップの意味でもある。大事な点だと思うが、その気づきには、方法と言うのもあると思う。
 もちろん、男女の違いというのも一人ひとりを形づくる重要な違いだが、違いは性差だけではない。その点に立ち入っていくためにも、今回の話を導入した。

社会調査のありよう [学問・研究]

未婚20代男女の3割近く「結婚しなくてもいい」……結婚観に関する調査
http://pc.moppy.jp/lab/archives/361

この動向それ自体へのコメントは措く。

ただ一言、このモッピーラボなるマーケティングリサーチサイトのほうが、少なくともアンケートの作成に関しては、国家機関である国立社会保障・人口問題研究所よりずっと「まとも」であることだ。

 どういうことかというと、以下の違いだ。

前者では選択肢は「結婚したい」「結婚しなくてもいい」「結婚したくない」の三択なのに対して、
後者では「いずれ結婚するつもり」「一生結婚するつもりはない」の二者択一。

 後者では、「結婚しなくてもいい」という選択肢が無い。
 そう考えている人も、相手次第では結婚してもいいということだろうから、「いずれ結婚するつもり」の方に回答する割合が高いだろう。
 未婚化・晩婚化の事情を把握したければ、確信的な独身主義者よりも、結婚を絶対視しない層(結婚を人生の必修科目でなく、選択科目としか思っていない)の動向こそ注目すべきだと思うが、国立研究所の調査ではそれが把握できない。
 強制二者択一=「フォースト・チョイス」と呼ばれる、典型的な欠陥アンケートのあり方だ。
 あえて裏を読めば、国立社会保障・人口問題研究所の調査は、「結婚しなくてもいい」層の増加がリアルに表われては国家的に不都合だから、あえてこの選択肢を設けないアンケートを行っている、世論調査に名を借りた世論操作ではないか、とも勘繰りたくなる。
(下位項目に「ある程度の年齢までに」「理想の人が現れるまで」の区分はあるにはあり、「しなくてもいい」層は後者を選ぶのだろうが、これはたいていは調査結果の前面に出てこないし、「結婚しなくてもいい」と同じだとは解釈できない)
 果ては、この調査結果をもとに、「未婚者の結婚願望は相変わらず高い」「若者たちはみな結婚したがっている」と解釈する社会学者もいたりする。
 この程度のアンケートの欠陥を見抜けないとは、社会調査のどんな訓練を受けたのだろうか。

モッピーラボなるマーケティングリサーチサイトの調査がどこまで信用できるかはともかくとして、アンケートの作り方自体はこちらのほうがはるかに優れており、社会の実態を把握するには相応しいだろう。

参考までに

国立社会保障。人口問題研究所
http://www.ipss.go.jp/

モッピーラボ
http://pc.moppy.jp/lab/

野外実習―キャンパスのなかで出会う生きものの営み― [学問・研究]

 教育人間学の講義では恒例となっている、野外実習。今日、今年も実践。
 キャンパスのなかで出会う自然の営み。わざわざ野山に出かけなくても、ちょっと意識して観察してみれば、実に豊かないのちの営み、また、生きもの同士のつながりを理解する機会がある。そういうことを体験する機会として、あえて身近なキャンパスをフィールドとしている。
 すぐ近くに山があることもあり、その山沿いまで、フィールドに含めた。
 毎年いろいろな発見があって面白い。
 今回だと、ガを捕らえて食べようとするところの、トカゲ(カナヘビの仔だろう)。
 木の葉に擬態したバッタの一種(アオマツムシか?)
 「クモの巣」といっても、種ごとに形もさまざまで、その主も多様。
 人工的に植えられた植物でも、その花の蜜を求めて、いろいろな種類の虫が集まる。その植物の種類が多ければ虫も種類が豊かになるというのは、生物多様性理解の基本。
 生きものそのものでなくても、アリの巣穴や虫の死骸をはじめとして、「生きものの跡」を探すのも手。「フィールドサイン」の発見、というわけだ。
 私にとってはメインである「鳥」について言えば、今はシーズンオフに近く、営巣中のカラスがけたたましいのと、年中キャンパスで見られるメジロ、あとシジュウカラ、ヒヨドリなど、限られていた。
 ただ、スズメの砂浴び。もっともありふれた鳥の一つだが、「砂を浴びる」という習性(寄生虫などの駆除のため)に立ち会えたのは、はじめてという人も多かった。
 こんなふうに、わざわざ遠くの野山に出かけなくても、ちょっと注意して観察力を働かせるだけで、いろんな生きものに出会える。
 それだけでなく、さらに洞察力を働かせれば、生命のつながり、生態系のしくみについての理解も増す。
 さらに、キャンパス内の生きものたちは、外部の環境とはどのようにつながっているか、も思いをめぐらせてもらう。虫や鳥はどこと行き来しているのか、人間が植えたわけでない植物はどこからどんなふうに来たのか。
 また、「五感を働かせる」。現代人は視覚情報に依存するところが圧倒的に大きいから、それ以外の感覚で感じられるものにどんなものがあるか(「五感」といっても、さすがに「味覚」だけは危険もあるので除外したが)。鳥の声、虫の羽音や風にそよぐ木の葉から、土の匂い、草の匂い、アリが腕を這う感触、森のそばに寄ったときの気化熱による涼しさ、まで。
 加えて、「教育人間学」の講義ということもあり、ここが仮に小学校や中学校だとしたら、どんなふうに子どもたちに環境教育が出来るだろうか…というテーマも、考えてもらった。
 生きものとの出会いは、身近な場所でも出来る。
 それが、自然を遠く離れたものと感じず、自分と密接に結びついたものとして感受するきっかけになる。
 環境への配慮の出発点は、こんなところにあると思う。レイチェル・カーソンの言葉でいえば、「センス・オブ・ワンダー」を身近から。
 写真も載せたいところだが、撮影はほぼ受講生たちに任せたので(私が撮ると自分がのめり込みかねないので)、そのデータが届いたときにでも。

スピリチュアリティで大事なこと [学問・研究]

 帰国後、大学の講義を持つのは今日から再開。姫路で「臨床哲学」を持つ。
 今回はスピリチュアルケアの話。将来医療職に就く学生たちが対象だから、是非とも身につけてほしい姿勢、考え方だ。
 WHOの「健康」定義改正案に表れた「スピリチュアル」の文言。人間には身体的・心理的・社会的な次元に加えて、スピリチュアルな次元が欠かせない一部をなしていること。マスメディアでの江原啓之氏を中心としたスピリチュアル・ブーム(大衆的スピリチュアリズム)はスピリチュアリティの一部とは言えなくないが、決してそのすべてではなく、スピリチュアルケア、スピリチュアルペインといった事柄はまず区別して理解すること。人間がもとより「宗教的な」存在であり、無宗教を自認する人間でも別の形で宗教性を満たそうとしている場合がたいていであること。そして、スピリチュアルケアの基本姿勢…などを話し、そのうえで受講生たちに、自らの課題としてスピリチュアルペインにどう向き合ったらよいか、を参加型の課題として考えてもらった。
 私などは、参加型・対話型の要素を講義に入れないと、どうしても授業ができない体質にまでなりつつある。

 というわけだが、思うに、出発点としてまず大事なのは、「スピリチュアリティ」という事柄そのものについての理解。それを、もっと多くの人が共有すること―というか、誰にも浸透し、自分の関心を言い表すために使える言葉となることだ。決して、研究者や専門職だけの言葉になってはならない。
 間もなく刊行される拙著―見たら、もう「これから出る本」にも載っていた―も、そんな目的で書いたものだ。
 人間には、身体・心理・社会とともに、スピリチュアリティという欠かせない次元があること。そして、この次元には特有の問題、ペインというものがあって、身体・心理・社会の次元の問題に対して相応の対処法があるように、相応の接し方があるということ。そういう理解が、それこそ誰にも共有されるものになっていくことが、これからの日本には必要だと私は確信している。

 人の抱える問題が、どんな次元に属する事柄なのか。それを適切に理解することは、「ケア」の場面に限らず、およそ人間に接するあらゆる機会に大切なことだろう。
 たとえば、愛情に飢えている子どもを満足させようとして、いっそうのモノを与える。
 現代医学で治せる病気なのに、快癒をひたすら神に祈る。
 職を失い、これからどう生活していくかで思い悩む人に、悩んでいるのだからと、カウンセラーや精神科医への相談をすすめる見当違い。
 こうした問題認識の間違いは、何の解決も提供できないばかりか、その相手を愚弄することにもなりかねない。
 「自分が何のために存在しているのか?」「この世の生が終わった後、私はどこへ行くのだろうか?」「どうして私はこんな運命に巻き込まれなければならなかったのか?」―そうした、スピリチュアリティの次元に属する苦悩も、それとして受け止められなければ、人を二重の疎外感に追い込むことになる。自分の苦悩が解決されないでいることに加えて、その苦悩が他者から受容されなかった、という二重だ。

 しばしば聞かれるのが、「心理的」と「スピリチュアル」の違い。いずれも、心の問題に深く関わることだから、区別は要るのか、という疑問も当然ありうる。私ならばこのように説明する。というか、今日、した。
 「心理的」の場合、不安とか抑圧とか、心の状態そのものを改善すればまず済む問題。娯楽や酒食、身近な人への相談からカウンセリング、薬物まで方法はいろいろあるにせよ、基本的にはそういうものとして理解できる。それに対して、「人生の意味」「自分の存在意義」「運命との向き合い」といったスピリチュアルな問題は、それが原因で苦悩や虚脱感が生じたとしても、その心の状態だけを改善しようとしても何にもならない。生きることの意味や、死後の運命について納得できる枠組み、人生観、世界観というものを見いだしてはじめて満たされるものだ。
 かつてロゴセラピーの創始者である精神科医V. フランクルにかかった、「人生の無意味さ」に苦悩して訪れた患者が、はじめから「薬は要りません」と拒否したのは、そんな事情を自身がよく認識していたからだろう(フランクル自身、もともと薬を処方するつもりはなかったが)。

 かつての日本でも、また今なお世界の多くでは、「宗教」がその答えを提供するものだ。だが「人間のデフォルトは無宗教」という人間観が当然視されているかにみえる今日の日本社会では、まず「宗教」に支えを求めることが難しくなっている。それだけ、スピリチュアリティの理解が大事になっている。
 まず、「問題」としてスピリチュアリティの大事さが広く認知されること。そのための努力こそ、いわば社会的なレベルでのスピリチュアルケアとして、もっと徹底して取り組まれる必要があると思う。
 私が世のスピリチュアリズムのブームに懸念するのは、「スピリチュアリティ」のごく一部しかカヴァーしていないこの用法が、普及するあまりそのすべてであるかのように受け取られ、人間にとって本質的なものとしての、もっと普遍的なスピリチュアリティに対する理解が、妨げられていると思うからだ。それ以上でも以下でもないし、このブームそのものを単に否定的に見てはいない。
 ということで、これについての私の考えは、詳しくは近刊『問いとしてのスピリチュアリティ』(京大学術出版会)にて。

Long Long Ago, 21st Century [学問・研究]

 久々に、大学での講義の話でも書こう。
 今年の教育人間学の特殊講義は、久々に受講者が30人強(登録者ではなく平均的な出席者)と多く集まってくれた。やはりある程度人数が多いほうが、採点は大変だが、やるだけの意義は大きい。常に学生参加型の課題を出す私の講義スタイルからすれば、それだけ意見の多様性も増す。
 今回のテーマは「時間」について。
 さまざまな時間のイメージ化のありかた。直線と円環、上向きと下向き。また、時間についての哲学思想的な見地―客観的な時間からベルクソンの純粋持続、ハイデガーの「存在の意味としての時間」、ホワイトヘッドの「プロセス」の考え方まで。
 さまざまな時間の見方を紹介し、常識的な「時計の時間」とは別の観点から時間をとらえ、生きてみるような姿勢を促す、というアプローチ。
 さらに示唆したのが、「履歴」「物の時間的な厚み」という視点。インスピレーション源としては桑子敏雄氏の『環境の哲学』のなかにある「空間の履歴」の思想があるが、この見地は個々のものにも応用できるのではないか、と考えてのことだ。
 消費社会のなかに生きるわれわれは、物を「消費」の時点でのみ接し、それがどのように作られ、どのように廃棄されるか、「どこからどこへ」ということが視野に入らないことが多い。これは環境の時代にあっては望ましい姿勢ではない。
 「一粒の米には、八十八の苦労がある」という古くからの知恵にあるように、物を「時間的な厚み」「履歴」をもったものとして見直してみたらどうか。そういう見地から、具体的になにかものを挙げて、その「時間的な厚み」を考えてみる課題をひとつ出す。
 そして、もう一つの課題。アメリカ先住民・イロクォイ族の「あらゆることを7世代後まで考えて決める」という知恵をもとに、7世代先、200年後の未来から、この時代を振り返ってみる、という課題だ。
 21世紀が昔々となった時代から、ということで、Long Long Ago, 21st Centuryと名づけて。
 というか、要するにこの題名は、わが一押し特撮作品『仮面ライダーBLACK』のED曲 “Long Long Ago, 20th Century” へのオマージュだ。
 受講者の1人がちゃんと気づいてくれたようだ。
 ともあれ、200年も先、この時代はどのように特徴づけられるだろうか。
 そのときまで人類が無事存続し、それなりの繁栄を続けているなら、今の時代は、「エネルギー浪費の時代」と特徴づけられるだろう。石油がこの時代まで使い続けられるとは思えない。おそらく今世紀中にはこのままなら枯渇する。そして今年は、原子力依存から大きく舵を切った年としても歴史に刻まれ、7世代後の歴史書にも記録されているかもしれない。
 もとより今の文明システム全体が持続可能ではないのだから、そのままの形で7世代後まで存続しているはずもないのだ。
 いろいろと興味深い学生からの記述もあったのだが、それはまたの機会があれば、ということでこの辺で。

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ベイスターズ売却交渉破談に触れてふと [学問・研究]

 決裂に終わったTBSと住生活グループとの横浜球団売却交渉。
 その原因については一般に報道されている情報だけでは一概に判断できないだろう。だが赤字を出し続けて球団の保持が困難になったために売却先を求めたTBSが、にもかかわらず本拠地や経営陣などについて、あれほどの条件を一方的に突きつければまとまる話も壊れてしまうだろうというのは、素人目にも推測できる。
 私自身はベイスターズファンではないこともあり、構想にあったという新潟移転の話は、「地方分権・地域密着」の流れに沿うものとして球界全体には望ましいものではないか、と思っていた。かつての首都圏と近畿圏にほとんどの球団が集中していた時代と比べても、名古屋、広島だけでなく福岡、札幌、仙台と、各地域の中心都市にプロ野球チームが置かれるようになったのはいいことだし、その流れにさらに続くものだから(首都圏とはいえ、千葉のロッテも地域密着で成功した例だろう)。
 とはいえ、各種のWEBでの書き込みを見ても、当の横浜ベイスターズのファンの人たちにとっては、さすがに複雑なようだ。自分たちの応援してきた球団がこれほどの危機にあるというのだから。
 さしあたり来季も横浜にとどまることは確定したようだが、だからといって単純にファンが喜べる上今日ではないことも明らかだ。球団事情がこうでは選手にチームへの愛着が生まれようはずがない。主力選手のFA流出は決定的だろうし、ドラフトで指名されても入団を拒否する選手も出てきかねない。ただでさえ三年連続最下位のチームがこれでは、楽天イーグルスの創設初年度に劣るとも勝らない(誤字にあらず)成績になっても不思議はない。しかも、「今は弱くても新しい球団を立ち上げ、強くしていこう」という希望に満ちていた楽天とはわけが違う。気の毒にも思えてくる。
 さてここで気になることだが、仮の話で球団売却が成立し、新潟あるいは静岡など、他地域に移転することが決定したとしたら、それでもチームを応援し続けるか、ということが、ファンの間で意見が分かれていることだ。移転すれば「横浜」は当然消えるし、新潟に湾はないから、「ベイスターズ」を名乗ることもないだろう。自分たちの地域(あるいは出身地)を離れ、名前もまったく変わってしまったチームに、なおファンでいつづけるかどうか、ということだ。
 これは、何ゆえにある球団のファンになったのか(ファンでいるのか)という問題である。
 これはプロ野球に限らず、サッカーなどにも言えることだが、あるチームのファンになるのには、大きく分けて二つの動機が考えられる。

①自分の地域(あるいは出身地)のチームだから
②そのチームの特色(強さ、プレイスタイル、あるいは在籍する選手や監督)が好きだから

 もちろん、これは理念型的な区分であって、実際には両動機が混ざっていることもある。
 私はずっと中日ドラゴンズのファンであるわけだが、それは何より、今は離れて久しいが、名古屋で18年間生まれ育ったからだ。名古屋在住時に在籍していた選手は山本昌ただ一人(むしろ今も現役なのが凄いが)、チームカラーもナゴヤ球場時代の「強竜打線」の攻撃型野球からナゴドでの守りの野球のチームへと一変しているが、だからといってファンをやめたことは一度もない。つまり、完全に①に該当する。
 その昔、関東出身だが「星野監督が好きで中日ファン」という人に会ったことがある。つまり②だ。彼女がその後阪神ファンになったのか、これから楽天を応援することになるのかはわからない。
 大げさに言えば、①は、自分が置かれた社会・歴史的条件による結果。②は自由主義的な選択の結果である。「倫理」の問題ではもちろんないが、実は今をときめくM. サンデルがハーバード講義で取り上げたテーマに通じるものだ。コミュニティとの絆か、それとも自由意志による選択か、ということだから。
 そして、多くのプロ野球チームのファンにとって、特にファイターズ、イーグルス、マリーンズ、ドラゴンズ、カープ、ホークス(東から順に並べた)のファンにとっては、①の要因が圧倒的に大きいことだろう。タイガースファンの場合は全国的にいるから、関西在住・出身という①の要因以外でファンになった人も少なくないはずだが。ベイスターズの場合、最近の観客数の少なさでもわかるように、この点が微妙なのが問題だったのだろう。
 ①だからこそ、たとえ選手や監督がどんどん入れ替わっても、プレイスタイルが変わっても、そしてたとえ弱くなっても、肩入れの程度は変わるにせよ応援しつづけるのだ。そのチームの独自の特徴が好きで応援しているのなら、ひいきの選手が退団したり、プレイスタイルが変わったりすればファンをやめるかもしれない。
 それだけ、生まれ育ったコミュニティの影響力が大きいということでもある。この問題については、「負荷なき自己」など考えられない、というわけだ。
 しかし仮に、そのチームが売却され、他地域に移転することになったらどうだろうか。それでも、そのチームを応援し続けるだろうか。それが、まさにベイスターズで起こりえた問題だった。
 実はこれは、「事物の同一性」の問題である。
 経営母体も名称もフランチャイズ地域も変わったとして、そのチームが同じ球団なのか、ということだ。
 これは客観的に決めることは困難だが、ファンの目からして、同じ球団として応援しつづけられるかどうか、ということだ。ファンがその新球団を「同じチーム」として認めるかどうか、ということだ。「同一性」を認識するかどうか、と言い換えることができる。
 例えば私の場合、まずありえない話だが中日ドラゴンズが売却され、名古屋とは別地域に移転することになった場合、なおファンを続けるか、ということだ。
 私は続けるだろう。それは、以前応援しつづけていたチームを引き継いでいるから、いってみれば時間的な「連続性」があるからだ。
 実際、今でも大阪の南海沿線には、南海時代からのホークスファンがまだたくさんいると聞く。あるいは、そのホークスが進出した福岡での当初の最大の障害は、西鉄時代からのライオンズファンの多さだったという。これは、地域が変わっても歴史的なつながりがあるからこそ、同じチームと認めて応援を続ける、ということだ。概念的に言えば、「同一性を認める」ということだ。
 だがこうした連続性はあくまで、ファンから見た主観的なものだ。当然、同じチームとは認めない人も出てくる。実際、新潟移転が実現したならファンをやめる、という横浜ファンの書き込みも、多く目にする。もはや以前の横浜ベイスターズとは本質的に違ったものになっている、ということだ。
 物事の同一性というのが、まさに「構築されたもの」ということが、こういった事例から見えてくる。
 職業病というべきか、こんな考察までやってしまうのだが、こういう身近な話題からも哲学的な論題は探りだせる。そんな実例とでも思ってほしい。

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日本倫理学会 [学問・研究]

金曜日から、慶応大で開かれた日本倫理学会に参加するため東京へ。
 今回は二仕事。一つは、金曜夜に開かれるワークショップ「初等・中等教育における倫理学の貢献可能性」のパネリストの一人として報告すること。もう一つは、当然ながら自分自身の発表だ。
 前者のほうは、私がここ数年委員を務めている国際哲学オリンピック(IPO)=世界各国の高校生による哲学的思索のコンテストの見地から提言するのが、主催の者から求められたことだ。
 なにぶん、数学オリンピックとか化学オリンピックの哲学版とはいっても、なにぶんまだ知名度も限られた催しであって、こういう活動が存在することを、もっと社会的に広く認知されるようにするのが現実には第一の課題なのだが、今回は理想的な可能性という見地から、IPOの意義について話した。哲学は本来誰にもかかわる問題であって、思春期の時期ともなれば「自分とはなんだろうか」とか「本当に正しいものは何なのだろうか」といったことは、一度や二度深く考えることがあっても不思議はない。であれば、そうした哲学的な問いの「受け皿」、「挑戦の場」として機能しえないか、というのが一つの見解だ。もとより世田谷区の中学校での哲学教育の実践や、「子どものための哲学(p4c)」の日本への導入など、初等・中等教育段階での哲学教育は、日本でも静かな胎動として起こりつつある。そのムーブメントの一翼を担うものとして意義あるものだ。
 他のパネリストで、現場の若手高校教員の方から、高学力とはいえない高校での「倫理」教育の実践について報告があった。「脳死・臓器移植」や「地球温暖化」「小児病棟」「アフリカの子どもたち」などの具体的なテーマを精選し、映像資料を活用した実践によって、生徒たちに倫理的な問題を考えさせていくアプローチは、私としてもたいへん感銘を受けた。特に、口頭で意見を言わせてもなかなか乗ってこない生徒たちに対して、紙上に匿名で意見を書かせ、それをシャッフルして別の生徒にコメントを書かせる「サイレント・ディベート」という手法はすばらしいものだと思った。
 ただそこで気になったこととして、プラトンのイデアとかカントの定言命法といった事柄は「倫理」で扱っても生徒たちには通じない、という話があったこと。現実的に考えればその通りだろうし、だからこそ、より具体的で身近に感じられるテーマをもとに授業をされているのだと思う。その反面、そうした倫理的なテーマと、専門的に研究され、深められている倫理学・哲学とが、結果的に大きく乖離している状態なのは、何かが足りない、とも感じさせられた。前の日記で触れたことで言えば、「広義の哲学」と「狭義の哲学」との乖離である。
 私自身、IPOの審査員としての経験から、特に欧州の高校生たちが自分の考えを深め、表現するためのツールとして「存在論」とか「善の欠如としての悪」「シンボル的動物」といった言葉を使いこなしているのを見てきている。日本の漫画が大好きだったり、休み時間には日本の高校生ともども「世界共通語」としてのサッカーで盛り上がったりする、ごく普通に見える高校生が、だ。それだけに、より物事を深く考え、また深まった考えを表現するためのよすがとして、(狭義の)哲学のことばが使えないものか、とは考えさせられるのだ。私の報国のなかで使った「知的資源としての哲学」という見地だ。この見方は相応に反響は得られたようなので、「広義の哲学」と「狭義の哲学」との接点を、いろいろな方面から探っていくことは今後とも望まれると思う。

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