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北海道より [学問・研究]

 今、帰宅したところだ。
 と、家に着きしだいすぐに日記にアップしようと、帰りの機内で書いていたのをペーストしたのだが。
 ということで、実は初めての北海道。
 札幌、藤女子大学で開かれた日本スピリチュアルケア学会のために、週末の間、赴いていた。
 今年は全国初の猛暑日を北海道が記録するという信じられないようなことが起こっているから、今行ってもひょっとして…と思ったが、さすがに本州よりずっと涼しい。20度台半ば過ぎぐらいだ。ただこれでも、最近まではかなり暑い日が続いた、とのこと。
 本州と違ってずっと広々とした大地が感じられる北海道だが、札幌も大都市にしてはずいぶん空間的に余裕があり、広々とした印象を受ける。道幅も広いから、京都のような過密都市で暮らしていると、だいぶゆったりとした印象を受けたものだ。
 京都同様に碁盤の目状に造られている、いかにも計画都市という感じのまちづくり。場所も交差する通りを組み合わせて座標的に表すのも京都と同じ。だが各通りに固有名詞がある京都と違って、札幌は「北12西5」といった具合に、本当に「座標」になっている。初訪問の人間にも位置感覚が非常につかみやすい。
 実は着いた直後にいささか古くなっていた革靴の靴底が破れてしまい、使い物にならないところまでいって現地で調達するというハプニングも。
 ともかくも、学会へ。
 創設3年目の新しい学会。だが実践家を中心に百数十人の参加者が集まっており、スピリチュアルケアへの関心と需要が、確実に高まっていることを感じさせられる。
 心に残る発表も多かった。
 スピリチュアリティの潮流には研究者として年来関心を寄せてきた私としても、そのなかで最も良質の部分に属するのが、スピリチュアルケアというムーブメントだと思う。
 そして私自身は、二日目の「スピリチュアリティの概念構築ワークショップ」で報告するためだ。
 ケアの現場の人間でもない私がこの学会に呼ばれたのも、「教育」を中心としてスピリチュアリティの意義を探る研究にここ数年たずさわり、スピリチュアリティを「問い」として理解することを通じて、スピリチュアリティを誰もの問題意識として理解する道を探ってきたからだ。
 生きていることの意味。人の存在のかけがえのなさ。運命との向き合い。大切な人の喪失と悲嘆にどう対処するか。そうした人生の根本的な関心事に真摯に向き合う姿勢、それが「問い」としてのスピリチュアリティだ。
 単なる心理的な問題には還元できない、そうした問題意識を適切に表現する言葉が、これまでの日本にはなかった。だから、人生の危機に直面して、なにが問題になっているか、それとして自覚することが難しかった。本来「宗教」が本領を発揮すべきテーマなのだが、宗教離れ、ひいては宗教アレルギーが進んでいる日本社会では「宗教的」と表現するわけにもいかない。
 そのため、悩める人が自分の問題をどんな種のものか認識することも難しいし、社会的、あるいは臨床的に、どのように援助を提供すべきなのかも問題が見えにくい。
 それを見えるようにしてくれるのが、「スピリチュアリティ」という言葉なのだ。
 特定の「答え」となる世界観を含まない、「問い」の次元のスピリチュアリティを確保することに私がこだわってきた理由は、そこにある。
 逆に言うと、最近のスピリチュアル・ブームのなにが問題かといえば、あまりに特定の答え=霊的世界観を含んだスピリチュアリティが圧倒的に普及し、スピリチュアリティを「問い」として、誰しも問題として受け止める道がふさがれかねない、ということなのだ。字面の上では似ているだけに、安易に混同されたり、誤解されたりした経験を持つスピリチュアルケア・ワーカーの方々は、さすがに多いようだ(「オーラでも見えるんですか?」と聞かれた経験のあるというお話も耳にした)。
 そういうわけで、スピリチュアリティをまず「問い」として理解する見地から、スピリチュアルな問題の大切さが社会全般の人びとに認識されるように。そしてまた、「スピリチュアリティ」という言葉を用いて、普通の人々が自分の抱える問題を理解し、表現し、また語り合えるような状況を日本社会に広く浸透させたい。私自身もそのために努力したいし、現場のケア実践家の方々も、このような目標も実践の視野に入れていただければ幸いだ。人びとが平素からスピリチュアルな問題の大事さを理解し、考え、それぞれの死生観、「答え」を育てていくことができていれば、それは「予防的スピリチュアルケア」になる。そんなことを、話してきた。
 研究発表のなかで、とあるケアワーカーの方が、ケアの相手の方から「それは私のスピリチュアリティとは違います」ということを告げられた、という経験を報告されていた。
 この話は印象深かった。専門職でない、ケアを受ける側の人が、「スピリチュアリティ」という言葉を用いて自分のありようを表現されているからだ。
 このようなことが、もっと一般の人々に広がること。それが、求められることだと思う。
 そのために、今回の私の報告で、少しでも何かを寄与できただろうか。

広義の哲学と狭義の哲学 [学問・研究]

 このたびは、早大で開かれた経営哲学学会に参加、発表してきた。
 今年度に入会し、すぐさまの発表ということになる。
 タイトルは「哲学のもうひとつの用法―ビジネスの文脈から読み解くその意味」というもの。私のかねてからの問題意識である、〈広義の哲学〉と〈狭義の哲学〉との関係についての研究だ。
 狭い意味での哲学というのは、もちろん専門研究としての学問的な哲学というもの。それに対して広い意味での哲学とは、「社長の経営哲学」「監督の勝負哲学」「職人のものづくり哲学」など、専門的・学問的な哲学の外で、一般広く見られる「哲学」の用法だ。両者の関係を探ることが、今回の発表の狙いだ。
特に、アカデミズムの議論では見向きもされない、一般の人たちが使う「哲学」の意義を見直す。それが、専門的な哲学が取り落としていた大事なものを今も保っている。こらちに目を向ければ、学問としての哲学も、学ぶところがあるかもしれない。そういう観点に立ってのことだ。「哲学すること」を、一握りの研究者だけのものにはしたくない。誰でもの問題としてとらえなおしたい。そんな問題意識が、背景にある。
 この研究をはじめて、最初の発表の場に「経営哲学学会」を選んだのには理由がある。「経営哲学」には、狭義のものと広義のものとがともに存在し、「哲学」の二つのかたちが出会う、ひとつの最前線となっているからだ。それに、このような発表を正統の哲学系の学会でいきなりやった場合、まったく相手にもされずに玉砕する可能性も高い。
 ということで、経営学的な研究や経営文明論などの発表が主流を占めるこの学会での発表に臨んだ。こちらの学会でも明らかに異色のアプローチで、あるいは場違いだったかも…と懸念もしたが、思いのほか、好評のうちに終えることができた。私自身はむろん「狭義の哲学」から出発している人間だが、そういう人間が「広義の哲学」にまで目を向けて語ろうというのはやはり珍しいことらしい。
 「広義の哲学」にも本来の意味で「哲学的」といえる要素はたくさんあるし(「自覚と反省」は伴っている)、実践への志向を強く保っているというのは、学問的な厳密さや普遍性を追求するあまり人生や社会の現実から遊離しがちな狭義の哲学に対して、哲学の原点にあったものを思い出させる意義も持つ。哲学の「生きた」ありかたは、むしろ「成功哲学」や「勝負哲学」のほうにこそ息づいている、といってもいい。専門的な哲学には、誰でもの問題意識としての「広義の哲学」に対してなんらかの寄与をなす使命があるはずだ。
 最近ではサンデルのハーバード講義を特集した番組が人気を博し、『これからの正義の話をしよう』がベストセラーになり、ビジネス誌『東洋経済』でも哲学特集が組まれるなど、「狭義/広義」の垣根は、ひところよりは低くなっているかもしれない。今は両者が対話する好機ともいえる。
 発表のなかでは言及しなかったが、専門の哲学者のなかには、「哲学」をごく少数の、特別な人たち―根本的に思索しぬく習癖にとりつかれた人たち―だけの営みとして扱おうとする言説があるのも知っている。また、哲学というのが本質的に西欧文化で生い立った独特の知と思考の様式であって、日本人にとっては「異文化」の事柄であり、容易な理解を拒むものである、という言説があるのも、百も承知だ。
 だがそうした歴史的経緯など気にも留めないまま、「哲学」という言葉が一般の人たちの間で流通している事実そのものは否定しようもない。「哲学」の由来がどこにあるか、という話は、そうした一般の人たちにとってはどうでもいい話のはずだ。まずその現実の「哲学」の用法に即して、話を始めるのはまったく許されるアプローチのはずだ。また哲学を徹底的、根源的な知の探求にしか認めない純粋主義というのも、同様の理由で、あくまで一つの見識でしかない。「哲学的に考える」ことを、万人に関わる思考の一つのありようとして位置づけるのも、現実の用法を踏まえるかぎり、まったく正当なアプローチのはずだ。
 そんなわけで、「哲学」のありように一石を投じるアプローチに乗り出したわけだが、いずれは専門的な哲学系の学界にも、何かを発信する必要はあると思う。そのときまで、この研究構想はしっかりと育てていきたい。

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臨床哲学講義 最終回 [学問・研究]

 姫路での「臨床哲学」講義、半セメスターの授業なので、本日、終幕となった。
 今年初めて持つ授業なので各回の準備も大変であり(実際、毎週のように、次回の内容はちゃんと出来るか…と懸念していた)、あくまで「手作り」の内容で臨みたいという方針もあるので、なおさらだった。
 将来医療職に就くために学んでいる学生を対象に、「生と死」の問題を哲学的に考えていくための授業。それが臨床哲学というわけで、講述にはとどまらず、学生一人ひとりが自ら考えていく機会は毎回提供するようにした。
 背景には専門的な見地はもちろん踏まえつつも、「人生を…にたとえる」「ある死生観を生きる人の立場で考える」「スピリチュアル・ペインに直面したら」「一人称の死のワーク」など、さまざまなワークショップ,参加型課題を導入してきたのもそのためだ。
 私自身は、そうした臨床哲学こそ、本来の哲学の志向を本質的に継承、再現している面があると考えてもいる。
 だが、終わってみればあっという間だった。
 今日、「別れは小さな死」というフランスのことわざを授業中で紹介もしたが、何となく、それが一面ではあてはまるような気もする。

 前週に、「一人称の死のワーク」で出した課題の一つが、「自分がこの地球上に誕生し、生き、去ってゆくことで、何が変わったか」ということを考えてみてほしい、とも。
さすがにこれだけではわかりにくかったか。歴史を動かす偉人でもないのに、何も変わらない…というコメントも多かったが、規模は問題ではない。この地球環境問題の時代であればなおさら、一人のにんげんが生きることで確実に多少なりとも何かが変わり、それが次の世代に影響を残していく。
そもそも、一人の人間が存在する上で、誰でも、多くの人びとから、そして自然から、気がつこうがつくまいが多くのものを「受け取って」いることは事実。それに対してどこまでのものを「返して」いるかの問題。それを象徴的に「地球上で」と表現してみた、ということだ。
こういう視座からも、人生を眺めてみる姿勢も持ってみると、何かが変わると思う。
そんな話もした。

 こんな見方も紹介した。人はその瞬間ごとに、無数の「影響力」となって飛散する。その「影響力」の一つひとつは、他の人や物のなかにとりこまれ、時とともに薄れるにしても、あくまで永続的に刻印されていく。そんな瞬間の繰り返し、連なりとして、人生がある。一人ひとりの人生も、そうした無数の他者からの「影響力」を受け取って、自分の中に集め、取りまとめてつむぎあげられたもの。そういう見地で人生を眺めてみたらどうか、ということだ。
 このアイディアのソースはA. N. ホワイトヘッドの哲学なのだが、ここはあくまで隠し味にしておいた。
 私自身の「影響力」がどこまで、受講者のみなさんのなかに取り込まれ、残る力を示していくのか、そんなことに思いをはせたくもなる。これまでの講義で扱ってきたような(臨床)哲学的に考える視点、何らかのかたちで生かしてくれたらいい。そんな思いだ。

 かくして今日をもって今年度の「臨床哲学」は終幕となったが、期末レポートで「会う」機会も、まだある。
 それを介してのコミュニケーションも、今後の「臨床哲学」「死生学」に改めて関心をもった折は質問に対応するというのでも、また何かの形でもつながりは続けられたら、とも思う。
 今日テーマとした「二人称の死」のような重大なケースとは違うとはいえ、「つながりは続く」可能性も残したいというところだ。

 今日は最初の梅雨の晴れ間で、帰途では快晴といっていいほど晴れたから、朝霧で途中下車し、瀬戸内海と淡路島、明石海峡大橋をまた撮ってみる。

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『ウルトラセブン』と臓器移植 [学問・研究]

本日の看護学校での「倫理学」講義では、「脳死と臓器移植」を扱った。
 昨年の臓器移植法の改定により、良くも悪くも「拒否表示方式」に切り替えられ、いやでも一人ひとりが関心を持たざるを得なくなったテーマだ。それは未来の看護師である受講学生たちにかぎらず、誰にとっても自分の問題となるわけだが。
 私としては学生一人ひとりが自分の頭で考えて問題に取り組めるようにすることが目的だから、どのテーマについても、自分自身の倫理(学)的な主張を説くことはまずしない。

 ただし、メディアの主流が圧倒的に移植推進論であり、これでさらに多くの人の生命が救われるようになる、という「光」の面ばかりが注目を集めている事情を踏まえて、カウンターバランスとして慎重論の意見をかなり幅広く取り上げた。あくまで、「問題の複雑さ」を知ってほしい、という観点だ。

 学生の側でも、「問題の複雑さに驚いた」というコメントや、「もし自分や家族が脳死になったら…」と言う場合を想定した意見なども見られ、それなりに考える機会にはできたと思う。

 日本での事情を知ってもらうために―諸外国と比べても、かなり賛否の論議が分かれた国だから―歴史的経緯も話したわけだが、時代事情を知ってもらうために、本邦初の心臓移植である「和田移植」が行われたのと同時期に放映された『ウルトラセブン』のエピソードにも触れた。
 第38話「勇気ある戦い」だ。基本的なストーリーは「病気の子どもに夢と勇気を与えるヒーロー」という王道路線。少年がいささか我儘すぎに描かれているのは気になるが、人間ドラマとしてもなかなかの出来といえる。
 その少年は心臓移植で生命を救われるという設定。このストーリー全体を通して、「科学技術は人間を幸せにするためにある」ことが強調され、それが一方で地球を守るウルトラ警備隊の戦いを支えると同時に、もう一方で心臓移植という形で表現される。

 この話に触れたのも、ほどなくして移植を実行した和田医師が死の判定をめぐる疑惑や功名心などを批判されるようになり、結局は不起訴になったものの、刑事責任を追及されるまでになったからだ。これを機に、日本の世論は移植慎重論に傾いたと言われる。
 その前の、移植技術が「人間を幸せにする最先端科学」としてもてはやされていた事情がよくわかる、という意図だ。
 いや、私が何よりこの手の話をしたくてたまらない、という希望があったことも、否定できないが(笑)。

 もとより、『セブン』は、いやウルトラシリーズ全般に言えることだが、科学技術の発展を無邪気に賛美するようなドラマではない。「地球人が科学的な探査のつもりで衛星やロケットを打ち上げたことが、他の宇宙人には侵略行為として映る」「破壊兵器のテクノロジーを強大化することで地球を防衛しようとすれば、宇宙規模の軍拡競争を招きかねない」などのエピソードもあり、科学・技術の進歩に対する批判的なまなざしも、十分に内在化させた作品だ。前作『ウルトラマン』でも、「科学の進歩の犠牲として見捨てられた宇宙飛行士が、モンスター化して地球に帰還し、人類に復讐を企てる」といった話があったりする。
 また、時代が平成に入ってから製作された『ウルトラセブン』の新作シリーズでは、しばしば環境問題がメインテーマとして扱われたりする。

 典型的なヒーローもののようで、科学の存在理由や正義と悪、人の心の闇など、子ども心にも深く考えさせる要素がしばしば含まれている。それが『ウルトラマン』『ウルトラセブン』『帰ってきたウルトラマン』をはじめとするウルトラシリーズが、特撮番組の「古典」たりえている理由なのだろう。
 むしろそういう『セブン』だからこそ、当時の時代状況が伝わる、というべきところだ。
 講義ではもちろん、軽く言及したにとどまっているが、ウルトラシリーズを通して考えさせられることというのは、実は多面にわたる。
 今日のウルトラシリーズの新作でこのテーマを扱ったら、どのような物語が作れるだろうか。

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ギリシアより [風景]

 以前のブログでも触れている国際哲学オリンピック(IPO)の仕事でギリシア・アテネを訪れ、帰国してからもう数日が経つのだが、こちらではまだ何も書いていなかったので、ひとまず、ギリシアで収めた風景の数々でも記しておこう。

 ギリシアといえば財政危機で大変なことになっている国で、そんな国を訪れるともなれば大丈夫か、どんな雰囲気だろうか、と心配にもなったが、その実、当のギリシア人たちは何事もないように人生を楽しんでいるかに見えた。

 一つ誤算というか、何というか。
 ギリシアといえば、この季節ならなおさら、雲ひとつ無い青空に燦々と照りつける太陽、岩肌の露出した山々にまばらに立つオリーブの木々…といつた風景を誰もが想像するだろう。もちろん、私も当然そうだと思っていた。
 以前同時期に、やはりIPOの仕事でよく似た気候のイタリアを訪れたときにも、日本の湿潤さに慣れた身には砂漠のように感じられる気候を身をもって味わっているのだから。

 ところが、意外に曇りがち。雨さえときにはぱらつき、ゼウス神の怒りなのか、時には雷まで鳴る様子。
 晴れ間も時々あったものの、「抜けるような青空を背に数々の遺跡を撮る」という当初から思い描いていた構想は、なかなか思うように行かなかった。
 現地の人の話では、これは異常気象とのこと。例年ならすでに乾季に入っているはずらしい。
 その代わり、遠くロンドンの辺りが異常に暑くなっているとか。

 ということで、アクロポリスの丘を見上げて。

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 ご覧の通りの空だ。

 しかも、パルテノン神殿はいま、補修工事中。ちょうど、日本での姫路城のように、というか。
 酸性雨に弱い大理石でできているだけに損傷はかなりのもの、とは聞いていたが。
 現代人の環境破壊がこうした古人たちの遺産まで傷つけていることを痛感させられる。

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 晴れ間がのぞいたチャンスに、なんとか一部でも、青空をバックに撮る。

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 こちらは同じアクロポリスの丘に立つ、エレクティオン神殿と少女像の柱廊。

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 アクロポリスの麓にあるイロド・アティコス音楽堂。紀元後2世紀と時代は下って創建されたものだが、いまでも演劇やコンサートが開かれる、現役の劇場だ。

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 そしてヘパイストス神殿。保存状態が特にいいことでも知られる。

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 この時には空もずいぶん晴れ渡っていて、なかなかいい背景で撮れた。

 ハドリアヌスの図書館

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 そしてギリシアを離れる前日に撮った、ゼウス神殿。

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 今は柱廊が残るのみだが、本来は最高神の神殿だけあって、パルテノンを上回る規模だったとのこと。

 このときこそ、青空に映えるギリシア遺跡を撮るというのが本当に実現した。

 残念ながら海のそばに出るという機会は得られなかったので、帰りの飛行機の窓から撮ったイオニア海。

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ローマを経由しての帰路だったので、方角的にエーゲ海を撮るのは無理だった。

 IPOのことは、また後ほど書くとしよう。

姫路からの帰路に [風景]

 今日は時間的な余裕もあったので、姫路からの出講帰りのJRは、途中下車。
 目的は、いつもなら通り過ぎつつ車窓から眺めている、明石海峡大橋と淡路島を撮るためだ。
 車内からの撮影は何度も試みたが、さすがに新快速のなかから一瞬で通り過ぎる景色をとらえるのは容易ではない。ズームを絞る時間もないし、邪魔な電線が入ったりもする。
 そういうわけで、一度はちゃんと降り立って、近くからこの景観を撮ってみたいと思っていた。で、朝霧で下車し、西から大橋を眺める。

 まず淡路島だ。

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 空も青くていい。

 舞子方面に歩き、砂浜から望む。

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近くに来ると、こんな風にも撮れる。

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どこまで、明石海峡大橋の圧倒的な巨大感を表現できただろうか。

 そして舞子まで来て、東側から撮った一枚。

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 こういう機会は一度は持ってみたかっただけに、なかなか満足だ。

今日の講義―物語と死生観 [学問・研究]

 今週も水曜日は姫路へ行く日。
 前回の講義で実験的に試みた、「さまざまな立場の死生観を紹介した上で、そのいずれかの立場を自分が信じているものだとして、その立場を擁護・弁明してみる」アプローチ、思いのほか反響があったことは、授業はじめの前回のフォローアップのなかでも感じられた。
 もともと「死生観」の問題について深く立ち入って考えた経験もない学生たちにとって、単に「いろいろなものの考え方」に触れるというだけでも新鮮でいい機会になったかもしれず、「こんな考え方もあるとは知らなかった」「参考になった」という声もちらほら。
 もちろん死生観の形成というのは一生ものの課題だ。だが考える「きっかけ」と「素材」ぐらいは提供できたようだ。
 多少「軽々しい」扱いになることを承知で、古今東西の死生観を「カタログ的」に扱ってみたのも、相応に意義があったものと思う。

 今回のテーマは「物語と生と死」。
 「死のタブー化」の時代にあって、生と死の問題を考えるうえで、ひとつの手がかりになるのが「物語」「フィクション」を介したアプローチだ。
 現実の死や死別体験をそのまま最初から扱うのは、衝撃が時として大きすぎる。そのため、フィクションのなかで生と死を扱った作品を通して、想像力でその作品世界のうちに身を置くことで、間接的なかたちで問題を考える場を提供しよう、というものだ。
 これは大幅に、研究室の後輩の年来の研究「文学を通した死生観教育」の着想を生かさせていただいている。この場を借りて、感謝を申し上げたい。もちろん講義で論考の紹介もさせていただいた。

 この講義のために、前の回に、「人の生と死」を主題的に扱った物語作品(小説、童話、漫画、アニメ、テレビドラマ、映画…)で思い当たるものを、学生たちに挙げてもらった。

 物語のなかでは、しばしば人の死ということは起こる。それが単に物語を盛り上げるための手段のように扱われて終わることもある。それでも感動はもたらされるだろうが、感動してそれまで。自分自身の問題にまで反転しない、ということもありうる。「三人称の死」のひとつにとどまるというわけだ。
 今回求めたのは、そういうレベルにとどめず、作品世界にじかに身を置いて、自分の問題として、「一人称」「二人称」に引き移して考えてもらう、ということだ。

 ただし、あえて学生自身が自分の問題としてどう考えるか…というかたちにはせず、「子どもに生と死の問題を考えてもらうにはどんな作品がいいか」「子どもが深い感心を抱いたときに、どの作品を提供してみようと思うか」「すでにその物語を読んだり視聴したりした子どもに、そこに込められた生と死の意味をどのように考えさせるか」と、あえて「子どもの見地」から考えるようにさせた。
 「自分自身の問題」にすると、時としてはある種の抵抗があるかも、との判断のもとでだ。あるいは、来週の「子どもと生と死」というテーマへの接続ということもある。

 大事なのは、子どもも接する物語でも「生と死」のテーマは多大に扱われるが、扱っているかどうかではなく、それを子どもがどう受け止め、自分で考える機会、場とするか、ということだ。漫画やアニメで、時として人の死を軽く扱っている、という批判のあるものもあるが、それは事の一面でしかない。そこで描かれた生と死の意味を子どもがちゃんと受け止めれば、そういう作品を通しても子どもなりの死生観形成の手がかりを得ることは不可能ではないと思う(私に言わせれば、ウルトラマンなど、生と死の問題を子どもが深く考えるうえで格好の題材だと思うのだが…)。

 というわけで、『フランダースの犬』『100万回生きた猫』『西の魔女が死んだ』『銀河鉄道の夜』から『ONE PIECE』『鋼の錬金術師』まで、いろいろな題材が挙がり、それについて考えてもらうことになった。
 個々の作品については、機会があれば触れるとしよう。

 帰途でのことも書こうと思ったが、ここまでで長文になったので、日記を分けることにする。

姫路へ初出講 [学問・研究]

 さすがに長旅だ。
 前の「講演会」の日記でも触れたことだが、今日は姫路での「臨床哲学」講義の初出講。行きで乗り換えの仕方を間違えかけ、多少混乱までした。時間に余裕を持って出発したから遅刻の心配はなかったとはいえ。
 姫路でも市街からかなり離れた山沿いにつくられたキャンパスでは、散りかけてはいたものの、まだまだ桜も見ごろだった。

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 先月の「講演」でもあらましは話したが、初回は「哲学を身近なものとしてとらえる」というスタンスから出発。その手始めとしてまず、予備知識なしで「哲学」のイメージを書いてもらう。 やはり「小難しい」「堅苦しい」イメージは根強い。また、「人生への問い」を哲学のプロトタイプとする意見も、さすがに多い。実際の哲学会がこれが中心で動いているとはいえないわけだが。

 前の看護学校での講義でも使った「赤信号で渡るか」という問い。こんな身近で卑近なケースでも、渡る、渡らないいずれにせよ、その人にそれ相応の行動原理というものがあり、その原理が人の判断、行動を動かしている、ということを知ってもらうためだ。良し悪し、適不適はともかく、自分の依拠している行動原理、基本信念を、それと自覚していないことが多いからだ。
 渡ると言う人の、「自己利益のためには法律を無視してもいい」という考え方。それはどこまで妥当だと考えているのか。
 渡らない、法律は法律だから、というのなら、人間が決めた法律というのは絶対なのか。
 それを自覚し、必要とあれば改める。それが、広い意味での、日常のなかの哲学的実践。
 また、「子どもが見ているかどうか」ということを判断材料に加える、意思決定の地平の拡大。それもまた、日常のなかでの哲学的な思考のひとつの実践といえる。

 「専門以外の勉強は専門を学ぶ邪魔になる」という考えの背後にある「頭を容器、知識を内容物とするイメージ」「知識を単なる物体のようなものとして考え、互いにむすびついて成長する生物のようなイメージが働いている」こと。
 「誰にも迷惑をかけなければ何をしても自由」と言う発想(元ネタはミルの「他者危害原則」と、立派な哲学的出典がある)は、自分の行いが迷惑をかけているかどうか、自分の目で見届けられるような時代にできた発想で、地球環境問題のように「見えない形で迷惑が及ぶ」現代には必ずしも通用しないこと、など。

 という感じで、身近なところから、「広義の哲学」から出発して語ってみて、それなりに「哲学が意外に身近に感じられた」との声も得る。
 次回以降はどうなるか、だ。

 帰りはチャンスは今日しかない、と、姫路に来ただけにしておきたいこと。

やはり桜の季節に撮りたい姫路城。
ところが実は補修工事中で、まともに撮るとこうだったりする。

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クレーンを外して撮るのも、ひと苦労だ。

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なんとか、桜の季節に間に合った。

帰宅して今の外では、梟の声が。

コーヒーと紅茶と…

 以前に「コーヒー派か紅茶派か」ということは、しばしば話題になることだ。
 私は基本的にどちらも好きだから、単純に一方に属するとはいえない(もちろん、日本茶も好きだ)。だが「無くて困るのはどちらか」と言われれば、コーヒーのほうだ。
 起き抜けのコーヒーというのは、生活上欠かせない。私の朝型生活を支える上では是非とも必要だ。
これがないと目が覚めず、その後の一日の活動にも多少なりとも支障をきたす。旅行や出張などで早朝にコーヒーを飲めなかったりすると、それだけで苦労することも多々だ(緑茶にせよ紅茶にせよ、カフェイン系の飲み物を多少なりとも摂れれば、いくらかましになるが)。
 ただその一方で、私にとってはコーヒーは基本的に「午前中の飲み物」。せいぜい、昼食後までに飲むものだ。
 特に夕方過ぎ(午後3時以降)のコーヒーは禁物。必ずとは限らないが、飲むとそれだけで夜眠れなくなることもしばしばだ。飲んで後悔した経験も何度かあり、今はまず飲まないことにしている。人から出されても遠慮するぐらいだ。
 ちなみに紅茶や緑茶なら何ともない。だからカフェイン含有量の問題ではないのだろうが、経験的にはこうなっているのだから、仕方がない。こちらは時間帯を問わず飲めるのが、私にとってのメリットだったりする。

 ちなみに私はコーヒーにはミルク(あるいはクリーム、パウダー)のみを入れる。この飲み方は、ことによると少数派らしい。基本的には「ブラック」か「ミルク・砂糖入り」に大別され、その次は「砂糖だけを入れる」飲み方という順らしい。
 かつてある友人の家を訪れたとき、コーヒーを出してくれたので、ミルクもつけてくれるよう頼んだが、砂糖はあるが、そんなものは置いてないと言われた。彼は砂糖のみで飲む人で、しかも牛乳を常備する習慣もないそうだから、私としてはほんとうに困ったことがある。「ミルクのみを入れて飲む」という発想がなかったらしい。別の知人からも、「ミルクのみを入れて飲む」という飲み方を珍しがられたことがある。
 「かな入力」ほどではないだろうが(笑)、そんなに少数派なのだろうか。

 私としては、事実上、この飲み方に限るのだが。
 子どもの頃は、当然、ミルクも砂糖も入れて飲んでいた。高校生の頃まではそうだ。だが大学に入って一人暮らしを始めてから、「自分の食生活を自己責任で管理する必要」のため、コーヒーに砂糖を入れるのをやめた。この時点で確立した、「砂糖と動物性蛋白はほっといても入ってくるから、むしろ摂る機会をセーブする」というポリシーに基づいてのことだ(前に日記にレシピを書いた「砂糖不使用のかぼちゃ料理」も、これによる)。それ以来、砂糖抜きで飲むのにすっかり慣れ、今では砂糖入りのコーヒーは、甘ったるくて飲む気にはならない。

 ではブラックで飲めばいいではないかと言われそうだが、これは実は今も駄目だ。
 実は、ひとつのトラウマがある。今も覚えている。
 あれは中学1年生の夏の終業式の日。私は夜遅くまで起きて、夏休みの多くの宿題を早々と片付けようと頑張った。夜更かしのために、私は眠くなればブラックコーヒーを飲む、ということを繰り返した。大きな缶入りのブラックコーヒーを一晩で空け、貫徹し、そして大量の宿題を撃滅した…まではいいのだが、明朝5時頃になって、さすがに眠くもなったので、少し横になって仮眠をとった。
 だが、2、3時間寝て目が覚めた後の恐ろしい気持ち悪さを、今も忘れることはできない。その後ほぼ一日苦しんだ。
 たとえていうなら、「胃液が(ブラック)コーヒーになった」とでもいう感じ。
 このせいで、私はブラックコーヒーはほとんど飲めなくなったのだった。今も少なくとも、「おいしく」飲めなくなっている。
 少年時代のあの時にあんな無理さえしなければ、もっとコーヒーを味わう幅が広がっていたかもしれないのにと思うと、いくらか後悔も残る。
 というわけで、「ミルク入り、砂糖抜き」が私の飲み方なのだ。
 このブログをお読みの皆様は、どうなのだろうか。

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看護学校での倫理学初講義ほか [学問・研究]

 新年度に入り、今日は看護学校での倫理学の初講。
 1年生配当の科目だが、今回はまさに新入生が入学して最初に受ける授業。それだけにこの学校での学びについて、どのような印象を与えるのかにもかかわるだけに、結構重要だ。
 昨年の日記にも書いたが、私の倫理学の授業はもちろん「道徳のお説教」などではないし、また、概論的に、古今の倫理思想や生命倫理の概念を知識として教えようとするものではない。
 未来の看護師たちのために、将来実践の場に出たときに、倫理的に考える力をつけてもらうための手助けだ。
 だから、自分で考えて取り組むことを重視する。ディスカッションをはじめとする参加型のアプローチは、むしろ当然だ(ちなみに高校時代からこういうスタイルの授業を受けた経験のある私としてはごく当たり前に感じられる形態なのだが、実のところ一般にはどうなのだろうか)。
 そのために、倫理的に考えるための柱として「論理・想像力・対話」の三つを強調して打ち出すのも定番。つまり、明確な根拠をもって、筋道立てて自分の考えを述べられること。自分の判断・行動が、見えないところにまで及ぼす影響、影響を受ける人たちの立場にまで思いを致すこと。そして、自分ひとりでの視野の限界を自覚し、他の人の考えに耳を傾けること、だ。
 去年同様、初回の倫理学的思考・練習問題として「(急いでいる状況で、安全に渡れそうな)赤信号を渡るか?」という設問で考えてもらった。今年は、このテーマにもミニ・ディスカッションを導入。
 ここで衝突しているものは何か、を考えてもらい、隣席の人と意見を交換する。
 実際、「渡る」「渡らない」の判断にしても、さまざまな根拠で主張しあっているようで興味深い。
 法律、ルールというものの意味まで、考えてもらうきっかけにもなったようだ。
 そしてもう一つの定番、L. コールバーグの「ハインツのディレンマ」より。「妻の命を救うために悪徳薬剤師から特効薬を盗む行為は正しいと思うか」という設問だ。
 今年は、意外に「盗みを正しい」とする意見が多かったようだ。まだ正確な集計はしていないが、改めて全員の意見を読み直すのも楽しみだったりする。

 午後には、顔見世という感じながら、出身研究室の花見に顔を出させていただいた。

 夕方からの仕事がドタキャンになった関係で、思わぬところで撮れた夕日。ここまで美しかったのも久々だ。空の染まり具合や、沈む場所もいい。「一瞬の奇跡」を感じさせるものだった。
 露出を変えて撮ると随分色合いも違ったものになるので、比べてみるのも一興。

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